【布陣】


「――そう、言ったそうだよ。
 秀麗殿は」
男は剣の柄を撫でながら言葉を切った。
目を眇めて射るような視線に絳攸は立ち竦んだ。
君はどうするんだい?
そう問われた気がした。


秀麗は庭院に面した石廊を歩いていた。探し人は吏部から戸部に移動し府庫に向かっているらしい。
ありえない。
秀麗は思う。彼は最短距離を使い、時間を一切無駄にせずに移動しているらしいのだ。李絳攸という人を知っていれば天変地異かと思うだろう。
そんな稀なる現象のせいで秀麗は絳攸を捕まえられないでいた。
「ほんとうに、何処へ・・・・」
手には邵可から渡された巾着。絳攸に届けて欲しいと渡されたものだった。ずしりと重い。持ち手が手にくい込んで赤くなっていた。秀麗は巾着の持ち手を変えると溜息をついて昊を仰ぎ見る。澄んだ青に白い月。午前の月は何も照らす事はなく。
・・・・月?
(そういえば、あの時も絳攸様は・・・)

少し前の事だ。秀麗は絳攸と一緒に食事をした事があった。
海鮮料理が食べたいと言って絳攸は魚介類を持参して邵可邸を訪れた時だった。
夕食の後、絳攸は邵可と二人庭院で酒を酌み交わしていた。とても長い時間。
彼は然程お酒が強くない。案の定、帰る頃には大分足元が怪しくなっていた。
「絳攸様?」
不意に絳攸は立ち止まった。彼にしては珍しく、まっすぐに玄関に向かっている途中だった。秀麗は心配になって絳攸を覗き込む。
「・・・月が綺麗だな」
絳攸は秀麗の肩にトンと手を掛けると笑った。秀麗は一度闇夜を見上げて絳攸に向き直る。彼は何をみて綺麗だと思ったのか・・・。
「絳攸様?」
絳攸はふるりと首を振った。どうやら大丈夫と言っているようだが。
「俺には自分より大切な方がいる」
唐突に絳攸は言った。昊を見上げたままで。
秀麗は絳攸の恐ろしい程に穏やかな顔を見上げる。
そして、息をのんだ。

 秀麗は石廊のかどを曲がる。廊下のかどを曲がる度に絳攸の姿を期待し、落胆した。
あの晩、秀麗は絳攸を見つめたまま動けなかった。絳攸は秀麗の肩を押しやると玄関にむかって歩きだした。見送りは此処まででいい、と。
秀麗は何も言えずに絳攸の背中を見送った。彼が流した唯一筋の涙が・・・あまりにも儚くて。
秀麗にとって『泣く』という行為は一種の発散だった。
しかし。
叫ぶでも喚くでもない。ましてや嗚咽を堪える様子もなかった。ただ、零れ落ちた。そんな様子だった。張り詰めていた糸がふっと切れてしまったような・・・
もしかしたら本人ですら気づいていないかもしれない。
秀麗が知る限り、絳攸はあの時からおかしかった。

 ドボン。
そんな音を秀麗は聞いた。なんだろうと思い首をめぐらす。
「・・・・あ。」
秀麗は思わず声をこぼした。探し人発見。
いや、だが。しかし・・・。
「・・・何をやってるんですか?
絳攸様」
秀麗は庭院の池に嵌っている絳攸に声をかける。両足見事に池に落ちて微動だにしない。幸いだったのは、深みに嵌っていない事だろうか。
絳攸も暫く放心している様子だった。秀麗の声で自分の惨状に気づいた感がある。
「絳攸様」
「あ・・・あぁ」
気力のない声が絳攸の口からもれる。秀麗は絳攸の傍に歩みよった。足元に巾着を置いて両手を差し出す。
「とりあえず。
お持ちの書翰を預かりますから」
あとは御自分で上がってきてください、と溜息をつく。
絳攸は言われるがままに書翰を秀麗に預けると音を立てて水から這い出た。膝まで濡れた衣。裾を絞ると盛大に水しぶきが蹴散飛ぶ。
秀麗が手布を差し出すと絳攸は首を横に振った。流石に手布一枚ではどうしようもない有様だ。
「・・・・近いと思ったんだがな」
絳攸はぼそりと言った。靴を脱いで逆さにする。
秀麗は辺りを見回した。
「・・・・吏部が、ですか?」
秀麗の記憶が正しければ池の向こうの殿は吏部だった気がする。
回廊で迂回するより、確かに近いが。
「方向性はあっているようですが・・・どちらかというと、あの世に近い気がします。入水自殺か、と」
内朝外朝ともに庭院に整備された池。大小様々だが水花を愉しむべく贅を凝らして作られた池は深さも十分で。
「書翰を持ってか?」
「最近の絳攸様は覇気がありませんので」
絳攸はびくりと身体を震わせた。
「容赦がないな」
「これでも絳攸様の弟子ですよ?」
晴れやかに笑って秀麗は絳攸を見上げる。
ふいに絳攸は思い出す。
―百年先を見通したときに何ができるのか、そう言ったそうだよ。もう何年も前。茶州にいたときに―
当時の歳若い二人の州牧が事業を提案し起動に乗せる為に奔走していたのを絳攸は知っている。
だが、彼女が茶州州官にそう激を飛ばしたのは知らなかった。
(その考え方は―)
「・・・弟子、か」
「絳攸様?」
「俺自身、一人前ではないのに」
ぽつりと絳攸は言葉をこぼす。
途を選んだが為に悔いを作った今の己には、なんて相応しくない言葉なのだろう。
「・・・絳攸様。何を悩んでいるのかは存じません。お訪ねもしません。
ですが。
絳攸様がどうあれ、私は絳攸様の弟子のつもり満々ですから」
「秀麗」
「それは譲れませんから」
秀麗は意思を宿した強い視線で見上げる。迷いのない目だと絳攸は思った。

絳攸は鮮烈な佳人を追いかけて朝廷に入ったものだった。そんな自分を慕い追いかける者がいるという事。
(いつのまに俺は俺一人ではなくなったのだろう)
それは見なかっただけかもしれない。
絳攸の目はずっと唯一人を見続けていたから。同輩で既に腐れ縁となっている楸瑛ですら、絳攸は一線を隔て、後ろめたい気持ちで付き合っていた。楸瑛は何度となく『李絳攸』自身に手を差し伸べていてくれたというのに。
全ては、紅家も藍家も王家ですら忌み嫌う絶対者の為に。
太陽のように鮮烈で月のように冷たく未来を見通す横顔が綺麗な人。
だが、それも今。
(俺は劉輝陛下を選んだ)
悩まなかった訳ではない。散々悩んで選んだのだ。黎深様のお傍に、を常とする絳攸にしてみれば裏切ったも同然で。
命令ではなく自分の意思で主上の傍に仕える旨を黎深に伝えた時、彼は一言『そうか』と言っただけだった。感情すら抜け落ちた顔で。翌日から黎深は出仕をしなくなった。百合さんも戻ってきた。彼女は紅家を出る事なく黎深の傍にいる。
納得ずくで主上と共にある事を選んだのに、心が痛む。
そして。
動揺著しい絳攸に楸瑛は言ったのだ。文官の政治手腕顔負けの絶妙な駆け引きで。
主上につくと決めたからには問う、と。
君は主上の元で一体何をするのかな
花菖蒲の―絶対なる忠誠の剣を撫でながら楸瑛は無言で問うた。
秀麗が茶州にいた頃の話を引き合いにだして。

絳攸は足元から寒さを感じてぶるりと震える。
「大丈夫ですか?」
秀麗の心配そうな顔に絳攸は苦笑する。
「ああ。吏部に帰れば着替えがあるしな」
吏部では『徹夜で数泊』は当たり前。自然と生活用品が増えてしまう。
絳攸は濡れたままの靴を履いて・・・あっと思い出す。
「すまない。忘れていた。書翰を・・・・」
秀麗に渡したままの書翰に手を伸ばす。秀麗は首を横に振った。
「お持ちします」
「それは不味い。
この有様だし、気持ちは嬉しいのだが・・・。一応それは吏部秘なんだ。うっかりしていたが」
秀麗はぎょっとして手の中の書翰を見る。
うっかりしすぎである。
「そういう事でしたら。でも吏部まではお供させて下さいね。お渡しするものがあるんです」
秀麗は手の中の書翰を絳攸に返すと、地面に置いていた巾着を拾う。
「ねぇ絳攸様。
前に私、悩みすぎてカラクリ人形になってしまった事があるんです。」
「は・・・カラクリ人形?」
唐突な話題転換に絳攸は秀麗を見下ろした。
秀麗は絳攸を見上げて笑う。二人は吏部に歩き出した。
「そうです。自分の選択が間違っていないと頭で理解して、でも理性がついていけなくて。考えて、考えすぎて逆に呆然となっていて。只仕事をこなすだけのカラクリ人形になっていました」
秀麗は思い出す。死ぬ直前まで笑っていた人。
絳攸は何も言わなかった。ぴちゃんぴちゃんと絳攸の足音だけが響く。
「でも、周りにいた人は優しくて。ちゃんと人間に戻してくれた」
絳攸は書翰を握り締めた。彼女の言いたい事が・・・・なんとなく伝わってくる。
「秀麗、俺の事を知って・・・」
絳攸は足を止める。数歩先で立ち止まった秀麗は振り返って首を横に振った。
「絳攸様の様子がおかしい事は気づいていましたが、何があったのかは知りません。でも、似ていると思ったんです」
「・・・秀麗」
「いや、あの・・・その。私なんかの悩みと絳攸様の悩みとは比べるべきもないんですが・・・
えーと」
何を言い出してしまったんだろう、そんな様子で秀麗は真っ赤になりながら言葉尻を濁す。
絳攸は苦笑する。
これでは、どちらが師で弟子なんだか。
「すまない。・・・その心配させて」
「心配くらい、させて下さい」
顔を軽く背けて秀麗は細い声で言った。ぎゅっと巾着を握りしめる。絳攸は秀麗の手が赤くなっているのを見てとった。書翰を片手に抱えなおす。空いた手を秀麗に伸ばした。
「重たそうだ」
巾着をよこせ、と。
秀麗は苦笑した。
「もう少しですから」
「大丈夫か?
でも一体それは」
絳攸と秀麗は歩き出す。
ぴちゃんぴちゃんと愉快な音がついてくる。
「父様からです。李だそうですよ」
この季節に李。一体どうしたのかと秀麗は邵可に聞いたのだが、邵可は笑ったきりで答えてはくれなかった。
「・・・李」
「はい。かなり酸っぱそうですけ・・・絳攸様?」
目を見開いて驚愕を顕にした絳攸に秀麗はそっと手を伸ばす。上腕に手を掛けた。歩き方がぎこちないと思ったら手と足が一緒になっている。
絳攸は秀麗の手を掴んだ。
暖かい。
そして、邵可の言葉を聞いた気がした。
―貴方の名前の意味を
と。
穏やかな笑顔と共に。
絳攸の名は黎深がつけた絆。絆の意味は何者にも―黎深にすら囚われず、自分の意思で自由に流れよ、と。
黎深様。邵可様。そして。
絳攸は秀麗の暖かい指先を握りしめる。搾り出すように言葉を紡ぐ。
「・・・秀麗。
秀麗、俺の周りも優しい人ばかりだ」
絳攸は目頭が熱くなるのを感じた。何かが胸いっぱいに広がって溢れそうになる。留めておくのも困難で、もういいか、と思った。
「絳攸様っ」
パタパタと涙を流し始めた絳攸に秀麗は慌てた。とりあえず手布を出そうとして・・・止める。代わりに秀麗は絳攸の大きな手を強く握り返した。
とても、強く。


 日は傾き地上から姿を消そうとしていた。
世界は紅く、紅く染まる。藍が影を落とすまでのほんの数刻の間だけ。
絳攸が主上の執務室に辿り着いた時、主は不在だった。
代わりに。
「・・・楸瑛」
狙い済ましたかのように、男はいた。
「今日は随分と遅かったね、絳攸」
「散々迷ったからな」
楸瑛は目を見開く。己の方向音痴を認めない男が珍しい言葉を発したものだ。否、それより何より。
「迷ったのかい?
ここのところ快調そうに移動していたようだけど」
にやりと楸瑛は口の端をあげる。絳攸は深く悩めば悩むほど些細な事には囚われない。逆にいえば、そんな時ぐらいしか方向音痴が治らないのだから難儀なものである。
「嫌味な男だな。生まれた時から叩き込まれた権謀術数。榜眼及第の頭脳は、女を口説くぐらいしか使わないんだと思っていたがな」
「平和な事じゃないか。
只の筋肉馬鹿じゃないだけましだろう」
「はん。
 言っていろ。己の本分が疎かにならないよう気をつけろよ」
ぴくり、と楸瑛のこめかみが震えたように見える。
「誰に言っているんだい」
「主上に傷一つでもつけてみろ、許さないからな」
楸瑛は壁に背を預けた。腕を組んで寛いでいるように見えるが、剣がすぐに抜ける体勢を保っている。
「・・・・答えが出たのかな」
楸瑛の言葉に絳攸はふんと鼻を鳴らす。黙って手に持っていたものを投げつけた。
楸瑛は片手で受け止めて。
「李?
なんて季節はずれな・・・」
「そうだな。今食った所で美味くはないだろう」
「ごめん。君が言いたい事が分からないよ」
「その李はいずれ熟し、熟れきって腐るだろう」
楸瑛はこめかみをとんとんと叩く。会話の先が何処に向けられるのか思案しながら。
「国も同じだ」
「・・・・栄枯盛衰を繰り返す、かい?
風流な話だね」
絳攸は近くの椅子を引き寄せて座った。窓から見える昊。日は完全に落ち、城下にちらほらと明かりが灯る。
「この国も例外じゃない。普遍なものなんかありはしないからな」
「・・・・いずれ、の話だろう」
「違うな。いずれにする為に今を堪えるんだ。それが俺の仕事だ」
国は生き物だと絳攸は思う。生きているからこそ死に潰える時がくる。労わってやれば長生きし、負担をかければ先は短くなるだろう。
「壮大な話だねぇ」
「俺は秀麗のように百年先の誰かの為に国を整えるつもりはない。」
楸瑛は、へぇと口の端を吊り上げる。
「劉輝陛下の御代を安定させ、彼の傍で御世が一日でも長く続くように堪える。国の老化と腐敗から」
「欲がないね」
楸瑛は壁から背を起こした。絳攸の言う仕事は『そうして当然』のように思える。当然すぎて難しいのだが。
「欲?
そんなものは後からついてくればいい」
絳攸はにやりと笑った。皮肉のこもった笑みを近しい人に見せるのは珍しい。
「・・・ついてくる?」
「ああ。俺と秀麗。二人の展望がうまく乗れば、な。いずれ国が終わった時、劉輝陛下時代が最上治だと後世の暇人どもに詠わせる事も可能だろう」
楸瑛は目を見開いた。腰の剣が壁に当たりかちゃりと鳴る。一拍して楸瑛は笑った。
なんという師弟だろう。
「秀麗殿は民が安寧に暮らす為に『こたえて』いきたいと言った。君は、国が――主上の御世を一日でも長く続くように『たえて』いくって?」
面白い。
楸瑛は目尻を緩ませる。
「確かに秀麗殿が茶州で起こしたような事業ばかりしていれば、国は息切れするだろう。どこかできっと歪んでくる。逆に君は堪え凌ぎ力を蓄える。そんな事が出来るなら」
楸瑛は言葉をきった。そこから先は言葉に乗せない方がいい。来年の事を言えば鬼が笑うらしい。数十年単位の話を鬼が聞いたら、どうするのだろう?
楸瑛は椅子に座る絳攸に歩み寄り肩に手を置いた。ここ最近の鬱々とした表情はない。吹っ切れた様子に安堵する。
もとより楸瑛は茫然自失の絳攸に手を差し伸べるつもりはなかったのだが。自分でたどり着かなければ意味のない事。だから余計に追い討ちをかける事もした。同じ下肢の花を賜った者として。
でも、今度は。
「・・・・それでいいのかい?」
そっと絳攸の耳元に囁く。新たに作る事。護り堪える事。どちらが容易いのか。
時として主上以上に負担を抱え込むのは・・・。
絳攸は嫌そうな顔をしてそっぽを向く。
「俺が道をあやまりそうになったら・・・
 お前が連れ戻してくれるんだろう?」
遠い約束を絳攸は口にした。
楸瑛はしがらみに気づいていない微温湯に浸っていた過去を思い出す。
今の二人なら出来るだろう。
劉輝陛下への絶対なる忠誠のもと、それぞれが一人で立つ事。お互いが支えあう事。
 そして。
「もちろんだよ」
楸瑛は友として微笑んだ。






                      了
 2007/11/24
   
   
 
現時点で原作は白虹まで。
その先の捏造なんぞ。