6・秀麗と邵可


貴陽邵可邸。
門前に着くなり秀麗は軒から飛び出した。
月明かりの下に映る邸の惨状。
朽ち欠けた壁。
剥がれた瓦。
とはいえ基礎はしっかり作ってあるらしく門扉だけは堂々としている。
お金がなくて邸全体に手が行き届いていないが思い出の詰まった邸。
秀麗は後ろにいた静蘭を振り返った。
静蘭は優しい眼差しで、どうぞ、と答える。
秀麗はにっこりと微笑んで門扉に手をかけた。
息を吸い込んで。
「ただいまぁっ」
言葉と同時に扉を押し開く。
帰ってきた。
帰ってきた、帰ってきた。

邸を出る時にした覚悟。

――生きて戻れないかもしれない。

茶州で疫病の報告を受けた時。
民衆を煽る文句を聞いた時。
刻一刻と悪い情報が飛び交うなか秀麗は茶州に出立したのだ。
“帰る”と約束した人には、悪いと思いつつ・・・。
その時、秀麗の目に燭台の灯りが目に付いた。
真っ直ぐこちらに向かってくる。
秀麗も灯りに向かって小走りになった。
「父様!」
燭台のほのかな灯りに照らされた父の優しい表情。
秀麗は思わず抱きついた。
「おかえり、秀麗」
邵可は娘を難なく受け止めると燭台を掲げた。
秀麗の顔を覗き込んで安堵する。
「元気そうで良かった。
 静蘭も」
秀麗の後ろに控えていた静蘭は軽く頭を下げた。
「ただ今、戻りました」
「うん。
 おかえり」
秀麗の覚悟とは逆に、邵可は二人が無事で戻る事を確信していた。
茶州出立の時点で。
何かあれば邵可の優秀な弟達が動く。
案の定、全員無事で疫病鎮圧との第一報も届いた。
それでも。
心配するなというのは、無理な話だった。
「さあ、奥へ。
 夕飯はちゃんと食べたのかい?
 お茶を淹れよう」
邵可の満面の笑みに秀麗と静蘭の背筋が凍る。
「と・・ととと・父様。
 お茶なら私が淹れるから」
「いいえ、お嬢様。
 お茶なら私が。
 旦那様と先に室へ行っていて下さい。
 つもる話もあますでしょう?」
静蘭の完璧な笑み。
秀麗は父の目に付かないように手を小さく振った。
(行って!お願い静蘭。父様を庖厨に入れないで)
早く早くと振る手も虚しく邵可は口を開く。
「何を言っているんだい。
 今帰ってきて疲れているだろう。
 室を暖かくしてあるから。
 それに湯は沸かしてあるしね」
邵可も譲らない。
これは父茶決定かと秀麗は顔を引きつらせた。
「旦那様?」
静蘭はおやっという顔で邵可を見る。
「どうしたんだい、静蘭」
「府庫に誰か・・・。
 灯りが」
邵可は、ああ、という顔をした。
「実はお客様がいらしていてね」
「お客様?
 父様のお知り合い?
 ・・・っていうか、お茶は?夕飯は?」
秀麗は青くなる。
家事不能な父が一体どのようなおもてなしをしたというのか。
想像するに恐ろしい。
恐らく庖厨は既にスゴイ事になっているのだろう。
(・・・冗官になって良かったかも。暫くは掃除三昧だわ)
邵可はきょとんという顔をする。
その顔は別に何も変な事はしてないよ、と言っていて・・・。
秀麗は益々怖くなった。
「夕飯はコウ殿が作ってくれたよ。
 いや。見事な青椒肉絲。
 青椒肉絲と饅頭しか作れないと、苦笑いしていたけどね」
「・・・父様。
 お客様にお采させたの?」
「かわりに食後のお茶を淹れたから。
 喜んで二杯も召し上がってね。
 だからお湯が温かいんだ。
 ちょうどいい時に帰ってきたね」
邵可はおっとりと微笑む。
秀麗は目を見開いた。
“父茶”を二杯。
(・・・・ツワモノだわ)
その時、父娘の会話に耳を傾けていた静蘭が口をはさんだ。
「旦那様。
 お知り合い、なんですよね」
父茶を飲める人物はかなり限られてくる。
静蘭は顔をしかめた。
(コウ殿。どこかで聞いた名前なんだが)
邵可は邸の府庫に目をやった。
「ああ。
 ・・・とても付き合いの深い方だよ。
 今、コウ殿は急ぎの用があって調べ物をされている。
 徹夜になってしまうだろうから・・・。
 明日の朝、紹介しよう。
 それまでは邪魔をしないようにね。
 彼を見たらきっと驚くよ」
邵可は複雑な面持ちで言った。
府庫で書物に埋もれているだろう彼の顔がよぎる。
彼は言ったものだった。
――私の事はコウとお呼び下さい。
と。
未来から来た、という絳攸殿はあえて幼少の名前を持ち出した。
(確かに区別が必要なんだが・・・・)
邵可は違和感を覚えたものだった。
己を示す呼び名。
普通、少し時間をかけて考えるものではないだろうか。
絳攸殿の言葉はまるで“初めから決まっていた”ようだったのだ。
思い過ごしにしては邵可の勘に触れすぎていた。
「・・・さま?父様?」
邵可ははっとした。
どうやら思考に集中しすぎていたらしい。
「ああ、ごめん。
 ちょっとボンヤリしてしまったね。
 さあ、お茶を淹れようね」
秀麗は何処となく様子のおかしい父を見つめ・・・溜息をついた。
結局ソコに戻るのか、と。
後ろでは静蘭が同じように苦虫を噛み締めたような顔をしていた。





・何故“父茶”で一話分ひっぱられたのか。
 長すぎです。
 予定外です。
 ラブ〜までいけなかったです。
 ウメは狼さんになってしまいましたよ。
 チキショウめ。
 恐るべし父茶・・・・。(20080215)