11・コウと秀麗


庖厨で秀麗は湯を沸かしていた。
赤い炎がチロチロと燃えているのをぼんやりと眺める。
食材の買い物に出掛けたのだが、気が乗らずに途中で帰ってきたのだ。
静蘭には、気晴らしにのんびり行って来て下さい、と言われたのだが。
知り合いの店を覗けば人々は喜んで秀麗を出迎えてくれた。
だが、ぽかりと何かが足りなくて。何かが分からなくてイライラする。
そんな自分が秀麗は嫌だった。
秀麗は茶器を揃える。
絳攸の声と顔を持つ、コウに会うために。



複数の足音がバタバタと遠ざかっていく。
室の中に一人残されたコウは音が遠ざかるのを慎重に確認していた。
誰もいない・・・そう思った瞬間、キュッと眉間を寄せる。
ガハッと息を吐き出した。
ゼッ・・ゼイ・・と不規則に呼吸を繰り返す。
胸倉を鷲掴みにして。
心臓をぎゅうっと紐で縛り上げられたような圧迫感。
肺は痙攣を起こしているようだった。
ぜいぜいと肩で息をきりながらコウは強く目を閉じる。
必死で冷静を装っていたのだ。
彼らを前にして。
(・・・俺自身、か)
コウは絳攸と会えばこうなる事が分かっていた。
十年前に実際に経験していたのだから。
あの時のコウは楸瑛に支えられる側だったけれども。
コウは思う。
一つの世界に二人の同一人物が存在する、という事。
あってはならない事ゆえの反発。
その反発が身体に異常を与えるのだろう、と。
(何にせよ、身構えていた俺の方が少しは楽か・・・・っ)
コウははっと身体を硬直させた。
数秒、息も詰まった。
目をあらん限り見開く。

―――左手が、ない。

袖の裾から出ているべき左手がなかった。
右手が普通に出ているのと見比べると違和感以外ない。
瞬時に頭に巡った最悪の思考。
それを打ち消すべく、コウは恐る恐る右手で左の袖を触れる。
上質の絹の柔らかい肌触り。
触感は、布だけ、だった。
そおっと袖を捲っていく。
かたかたと右手が震えていた。
そして。
左ひじが現れた。
左ひじから下は掻き消されたように消失していた。

ガチャンッ

コウははっと顔を上げた。
音のした方を見る。
外出すると言っていた秀麗が立っていた。
(っ見られた・・)
コウは咄嗟に左腕を庇う。
遅いとは知りつつも。
秀麗は足元に転がる割れた茶器や飛び散ったお湯、盆には目もくれず、コウの手を食い入る様に見つめていた。
呆然と秀麗は足を踏み出す。
パリンと音がしたが気に留めた様子もなかった。
その事にコウが慌てた。
「秀麗っ
 動くな。あぶな・・」
割れた茶碗の上をヨロヨロと歩いて渡る秀麗にコウが怒鳴る。
コウは足早に秀麗に近づき彼女に手を伸ばし・・・その手を逆に獲られる。
力強い手で秀麗はコウの両手を掴んだ。
正確には、コウの右手と左袖の衣を。
コウはちっと舌打ちする。
「・・・コウ様・・・どうして――
 なんでっ!」
秀麗は丸く目を見開いてコウを見上げる。
瞬きしない大きな目のふちが少しずつ潤む。
「コウ様!」
その真摯な様子にコウは何をすればいいのか分からなくなる。
(何を言えばいい?どうすればいい?)
目の隅に映ったのは散々たる床の上だった。
コウはあっと思い出して腕を引く。秀麗とともに。
足元に気をつけて移動する。
コウは秀麗を椅子に座らせ、自身は秀麗の足元に膝をついた。
秀麗の衣裾はこぼれたお湯の染みが広がっている。
「秀麗。
 足は、怪我は・・・」
秀麗はじいっとコウを見つめる。
「・・・秀麗」
コウはじりじりしながら秀麗の言葉を待つ。
痛そうな素振りがないから怪我はしていないだろう。
それでもコウは実際に目で見て怪我をしていない事を確かめたかった。
本人の了解を得ずに裾を捲ったら・・・やはりイケナイだろう。
「秀麗?」
コウはそっと名前を呼ぶ。
と、秀麗の目尻からぽたりと涙が零れ落ちた。
秀麗の指先に落ちて蹴ちり飛ぶ。
ぴくりっと秀麗が震えた。
秀麗は涙で濡れた指を伸ばす。
コウの頬に触れる直前でぴたりと止まった。
「・・・アナタは誰?」
コウははっと息を飲んだ。
“絳攸”として接している自分に気づいたのだ。
「・・・」
「今の貴方は“絳攸様”だわ。
 貴方は、誰ですか?」
秀麗は一度深く息を吸った。
「その左腕は・・・」
秀麗の瞳が揺れていた。
毅然と前を見据える秀麗の目が揺れていた。
コウは苦いものを飲み込んだような顔をしていた。
やがて。
「秀麗・・・
 未来だ」
ぽつりとコウは言った。
「未来だ、秀麗。
 俺はこの世界の未来の一部」
コウはあえて自分を物のように言う。
「・・・・」
「秀麗、怪我は?」
「・・・沁みる」
何に沁みるというにか。
コウは眉を寄せる。
その時、秀麗の赤い指先が目に入った。
涙の跡が残るアカギレた指先。
コウは秀麗の指先を見つめて、目を閉じる。
10年先の彼女。
コウの覚えている限り、未来の秀麗の指先はこんなに腫れてはいなかった。

――この、違い。

「そうか。
 沁みる、か。
 良かった。
 痛みが戻ったな」
秀麗は食い入るようにコウを見つめる。
茶州に行く前。
彼が言った言葉は。
「どうしてその事を・・・」
秀麗の頭にコウが言った“未来”という言葉が警笛を鳴らす。
未来とは、どういう事なのか。
「“絳攸”では言えなかった」
コウは思いだす。
彼女に言いたくて、言えなくて。
そのうち言葉自体を忘れていた。
茶州へ赴く秀麗に送った言葉。
茶州から帰った秀麗に言いたかった言葉。
彼女は冗官で。
主上と相談の上での結果とはいえ心苦しかった。
情勢を鑑みて、とか。
彼女をよく思わない一派への鎮静剤代わり、とか。
そんなもやもやした気持ちのまま、彼女は冗官の首切りを受けるはめになり。
言葉はどんどん記憶の底に沈んでいった。
「“絳攸”では言えなかったが、今の俺なら言える。
 ゆっくり、休んで欲しい」
ほんの束の間の休息とコウは知っているが。
秀麗の頬に幾筋も涙が伝う。
パタパタと流れだしたら止まらない。
コウの言葉は秀麗が絳攸に期待して諦めた言葉だった。
冗官に落ちた秀麗では簡単に会って話せる地位の人ではなかった。
吏部侍郎という大官の肩書きを持つ彼は。
そして。
自分にも他人にも厳しい人は、労わりの言葉より、這い上がってこい、と言う人だった。
だから、諦めた言葉だったのに。
秀麗はふっと息を詰める。
「どうして!」
声を荒げた。
掠れた声だった。
「どうして!
 その顔で声で、その言葉を言うんです!未来って何なのっ!
 どうして・・・・」
秀麗はぎゅっとコウの左袖を掴んだ。
「どうして手がないんですか・・・・」
ひっく・・ひっく・・と秀麗はしゃくりあげる。
コウは静かに目を伏せた。
口を真一文字に引き結ぶ。
秀麗はコウの目を見て・・・。
強固な意志がある事に気づいた。
秀麗が忘れたくても忘れられない強い決意を秘めた瞳。
「コウ殿。
 秀麗」
コウと秀麗はびくっと身体を揺らした。
割って入った聞き覚えのある声。
二人は揃って扉を見る。
神妙な顔で声の主は立っていた。
「父さま」
「邵可様」
気配はなかった。
いつからいたのだろう、とコウは少し怖く思う。
邵可は秀麗とコウを順繰りに見比べて静かに言った。
「なんだか床がスゴイ事になっているね。
 怪我は?・・・・それなら、秀麗片づけを。
 コウ殿。
 少し庭院にでませんか?」
にこやかな表情で邵可は言った。



 

・涙雨7と対になっています。
 後半戦突入(・・・やっと)です。
 急遽書き直した、いや、単にウメがうまくないせい・・・で、まとまりが良くないですね。
 文章自体がクドイ気がします。
 勉強しない、と。(涙)
 
             20080419