「・・・なっ」
楸瑛は声を裏返した。
「女嫌いの君が結婚したって!」
「まって下さい。
 貴方は紅家当主の養い子。
 紅家の後押しだけでも・・・・」
静蘭は言葉を切った。
ギギギギギっと油が切れた機械のようにギクシャクと首を巡らす。
視線の先は楸瑛だった。
彩雲国最大貴族彩七家。
筆頭名門藍家に次ぐ紅家の後押しでさえ、他家の追随を許さないはずだ。
更に上を望むなら。
コウは宣言した。
「藍の華を」
「・・・私の義妹達の誰か・・・だって?」
楸瑛は息を軽く吸った。
頭がよく回らない。夢を見ている気がしていた。
「お前は、どういう道を辿るんだろうな?」
コウは動く気配のない絳攸を見下ろす。
「俺には、十年前にコウという男に会った記憶がある。
 そして、十年経って“この世界”に来た時コウになる事を決めた」
絳攸の指先がぴくりと動く。
「お前は、どういう道を辿るんだろうな?」
もう一度コウは繰り返した。
「未来は開かれている。
 出世を望むなら望め。
 代償を払って。
 心に居る女性と共に歩みたければ歩けばいい。
 信頼を裏切って。
 政治という柵の外に出るのなら、紅州に戻り紅家の行事に携わるといい。
 今お前が持つ全てを捨てて」
「・・・・・」
「お前の目の前にいる男は出世を望んだ。
 朝廷百官の高みを。
 必要だったから政略結婚をした。
 紅家も利用した。
 だが、お前が必ずしも俺と同じようになるとは思えないし思わない」
コウは静かに言い切った。
一方、絳攸の目はゆらゆらと揺れる。
心ここにあらず。
「・・・なら。
 俺は?」
「お前が思うままに。
 どんな道を歩んでも、お前が此処に来る事だけは逃れられない。
 ・・・悔いだけは残すな」
此処で人生が終いになるかもしれない、とコウは言わなかった。
言わずに、ただ穏やかに笑った。
絳攸に初めて向けたコウの優しい笑みは、親が子に向ける慈愛に満ちたものだった。
(これで十分だ・・・こいつ・・・俺には)
コウは佩玉を握り締める。
懐から取り出した時のコウの身体の頼りなさ。
あまり時間はなさそうだった。
コウは静蘭を見る。
静蘭そして楸瑛も呆然としていたようだった。
「静蘭。
 案内して貰いたいところがある」
はっと弾かれる様に静蘭の肩が震えた。
「案内・・・ですか」
「ああ。これで最後になりそうだからな」
何の最後か、静蘭は聞き返さなかった。
コウの衣が妙に不恰好な事にも触れなかった。
コウに道案内をするのは非常に癪に障ったが、静蘭は軽く頷いた。
静蘭はコウを伴い廊下にでる。
と。
楸瑛までもが廊下に飛び出た。
「まってくれ」
肌寒い石廊で楸瑛は前を歩く二人を呼び止める。
「まってくれ」
コウと静蘭は足を止めて振り返る。
生気を失くした顔の楸瑛がそこにいた。
「君・・・・
 藍の華って誰の事だい?
 ・・・本当・・・だろうか」
「・・・当初彼女の目的は違った。
 彼女の目的と藍家の思惑を阻止するために俺は動いた。
 と言えば想像がつくんじゃないか?
 お前も、そろそろか、と思っているだろうしな」
「・・・まさか。
 兄上達が・・・」
静蘭は目を細めて楸瑛を見つめる。
コウはぽつりと言った。
「夏の夜。清流で戯れる光。
 彼女はその異名を持っている」
楸瑛はあっと思った。
まさかと思うより、彼女ならと楸瑛は思ってしまった。
コウは意地悪くニヤリと笑う。
「と、言ったらどうする?」
楸瑛は目を丸く見開いた。
その視線の先。
コウと静蘭は既に歩きだしていて、視線は背中を追うばかりだった。



「こちらです」
静蘭は庭院に出られる回廊で立ち止まり振り返った。
ここなら、いくら絳攸でも迷うまい。
案内されたコウは一つ息をつく。
だいぶ身体が軽い気がしていた。
「すまない。
 あぁ、そうだ。
 静蘭手を出して貰えないか」
静蘭は訝しげに眉をひそめたが、言われたままにする。
コウは静蘭の掌にコトンと赤い石を落とす。
「これは・・・紅玉ですか。
 大きいのに傷一つない」
硝子玉に見えてしまいそうな石を静蘭は正確に判別した。
「持ち合わせがなくて。
 食材を買う暇もなかったし。
 金で払うにも、俺が持っているのは“流通されていない”貨幣だからな」
静蘭はふっと笑った。
コウの言葉の意味を正確に読み取る。
そしてニコリ、と笑った。
静蘭の“手ぶらで邵可邸の門はくぐれない”教育は時を経ても骨の髄まで染み込まれているらしい。
「分かりました。
 有難く頂戴いたしましょう。
 ・・・お嬢様には御会いしなくても」
静蘭は答えを知っていたが聞いてみた。
案の定、コウはただ、こくりと頷くだけだった。
その時。
ぱさり、と音がしてコウの左肩が・・・・いや左肩にあたる衣が落ちて胸の辺りにわだかまる。
静蘭の目の前にいる男は確実に消えようとしていた。
静蘭は何も言わずに目を細める。
こんな事を可能にする力があるとしたら。
静蘭が思い浮かべる一族。
自分を公子から追放した、おぞましい奇跡の力を持つ奴ら。
もしそうだとしたら。
力の安定性と不安定さの両面を静蘭は知っている。
(尋ねてみないのは、そのせいか・・・?)
帰るのですね、と。
帰れるのですか?とも。
「・・・・静蘭」
視線を庭院に向けたままコウはぽつりと言った。
言おうか言うまいか迷っている様子だった。
「・・・なんでしょう?」
「・・・あの馬鹿二人を頼んでいいか?
 石頭どもの尻を蹴れるのは静蘭ぐらいだからな」
「いやです」
即答だった。
静蘭はフンっと鼻まで鳴らしてみせた。
コウは微苦笑する。
何かを思い出すように。
「静蘭
 ・・・主上のために」
静蘭は少し長い前髪の奥から射るような視線を送る。
「知りません。
 自分で好きな未来をとりますよ」
コウは目を丸くして静蘭を見た。
まさか、逆手にとられるとは。
静蘭のささやかな反撃だった。
「ではな。
 世話になった」
そういうとコウは庭院に踏み入った。
目的の場所は目前。
視界の内だった。







・涙雨13を書き終えた頃に新刊“琥珀”が発売になりました。
 “琥珀”の内容からだとイロイロ無理がある場所があります。
 少し手直しはしましたが。
 ・・・・・フーンぐらいで流して貰えると有難いです。
 それと。
 官位について触れた場所があります。
 原作の中から読み取って判断したのですが・・・・こちらも、そうだっけ?と思われても軽くスルーして頂けると。
 きっちり中国の官位について調べた訳ではないので、パラレルと割り切って下さいね。

20080503