「お返しします」
そう言って秀麗は佩玉を差し出した。
「いいのか?
 形見がなくなるぞ?
 実際問題、確実に帰る術はないんだからな」
コウは憎まれ叩いてみせた。
「絳攸様。
 形見を残すような顔をされてませんよ。
 それに・・・
 持っていても辛いだけですから」
「?」
「私事です。
 ・・・・えっと。
 よろしければ腰帯にお提げしましょうか?」
そのまま預けるのは、何だか失くしてしまいそうな心許無さがあって秀麗は切り出してみた。
コウは苦笑するしかない。
「ああ、頼む」
秀麗はコウのそばに膝をつくとコウの腰帯に手をかけた。
佩玉の組紐をみつめて・・・結んでいく。
その所作にコウはおやっと眉を上げた。
秀麗はどうも組紐に気をとられているようだった。
佩玉そのものよりも。
「秀麗?」
「・・・大事な・・・」
「あ?」
「・・・・・大事な女性がいるのですね」
ぽつりと秀麗は言った。
断定だった。
「秀麗」
「売り物では・・・なさそうですから。
 この紐」
紐を組む時に左に力が入ってしまっている、少しいびつな組目。
秀麗も良く知っている組方だが、秀麗の手ではない事は明らかだった。
その紐に大事な佩玉を提げる・・・という事は。
「そう・・・だな。
 思いを口に出した事はないが。
 大切な女性だ」
コウは観念したように言った。
秀麗なら、言ってもいい気がしていた。
「・・・・そ・・・」
秀麗は言葉に詰まった。
そうですか、と認めてしまいたいのか。
それは誰ですか?と尋ねたいのか。
「秀麗。
 ひとつ頼まれ事をされてくれないか?」
「頼まれごと・・・ですか」
秀麗はどこか遠い目でコウの言葉を反復する。
コウは衣の袷に手をいれた。
深いところまで手をいれてガサゴソする。
ややあって、コウが取り出したのは。
「・・・きれい・・」
紅い花の櫛。
コウは秀麗の手の中にそっと櫛を置く。
ズシリと重い櫛を秀麗は丁寧に受け取った。
紅水晶に紅玉、それに紅珊瑚だろうか。
惜しげもなく使われた貴石に刀をいれ、立体彫りで模ったのは花。
蕾であったり咲き初めであったり満開であったり。
生き写しの如く咲いた花は、李花だった。
貴石の李花が木の櫛の上で輝いている。
もしかしたら、この木の櫛ですら李木なのかもしれないと秀麗は思った。
これだけのこだわりがあるのなら。
「これを預かって欲しい。
 失くせないものなんだ」
確かに櫛一つで一財産になりそうな代物だ。
大切なのは分かる・・・・が。
秀麗はコウの言葉の先を聞きたくないと、切実に思った。
「こ・・・こうゆう・・様」
「俺が戻る時まで・・・・預かって欲しい」
「・・・・それは、いつですか?」
「十年」
「・・・っ」
「十年経って、もし戻れなかったら。
 その時は・・・・俺の妻に渡して欲しい」
秀麗はドクリと心鼓が鳴るのを聞いた。
「ご・・・・御自身で渡された方が・・・喜ばれると」
「これは急ぎで作れるものではないんだ。
 戻った時に、失くしていたら・・・間に合わない」
「・・・間に合わない?」
「妻は臨月なんだ。
 出産祝いに半年以上かけて作らせた」
秀麗は悲鳴を聞いた。
身体の奥底。心臓がぎりぎりと引き千切られたようだった。
痛い。・・・・・イタイ。
「・・・・ずるっ・・」
何とか搾り出した声は低く擦れていた。
「秀麗?」
「・・・・ず・・・るい・・・」
(そんな事を・・・・私に頼まないで・・・お願いだから)
目が熱くなるのを堪える。
その時。
秀麗の目前でコウの右手が消えた。
これでは・・・もう返せない。
秀麗は歯を食い縛った。
泣かないって決めたのだ。
無理して作った笑顔は引きつっていた。
「絳攸様。
 ・・・ずるい・・ですよ。
 御家庭を持って・・・・来月には家族も増えるのに・・・
 死ぬつもりだったんですか・・・」
「・・・子が生まれれば。
 その子が俺の形見になる。
 それでいいと、思っていた」
「やっぱり、ひどい」
女心は・・・きっとそんなに甘くない。
秀麗は思った。
「今は。
 帰るつもりでいる。
 その櫛は・・・保険としたい。
 だから」
秀麗は震えながらコクリと頷いた。
「心得ました」
「そうか・・・・
 すまない。
 ・・・・ああ、そうだ」
その時コウの頭をよぎったのは絳攸の事。
(俺が俺である限り、そう滅多な事は起きんと思うが・・・)
「絳攸様?」
「十年後・・・
 もし俺が十年後に戻れずに・・・消えた“李絳攸”が独身を貫いていたら」
秀麗はヘ?という顔になる。
奥さん・・・は、どこに行ったのだろう?
コウは少し笑ったようだった。
「その時は、秀麗が櫛を貰ってやってくれ」
「・・・・え・・えと」
まさか、先ほどの話全てが嘘だったのだろうか?
狼狽する秀麗にコウは笑みを深くする。
この櫛が自分の元に戻ってくる確率はどれくらいだろう、とコウは思う。
コウが十年後に戻れる可能性。
この世界の“絳攸”がコウと同じ途を辿るか否か。
全部をひっくるめたら、きっとそんなに確率は高くない。
「あ・・・あの」
「秀麗。
 きっと確定しているのは過去だけなんだ。
 未来は変わる可能性がある・・・と俺は思う
 秀麗は。
 まだ分からなくていい事だ」
秀麗は一生懸命な表情で口をパクパクさせている。
愛おしい、コウは思った。
頭をポンポンと撫でてそっと抱きしめたい感情に駆られる。
すでに両腕はないけれど。
「秀麗。
 そのままで
 秀麗らしく、秀麗のままに。
 紅官吏の心配はないんだが・・・な。
 経験がお前を強くするから」
コウの脳裏に陸清雅の不敵な微笑が浮かんだ。
コウの瞳がぎらりと剣呑に光る。
「こ・・・絳攸様?」
秀麗はぱちぱちと目をまたたく。
いつもなら、上がってこい、と言う人が・・・。
「秀麗・・・・少し目を閉じてくれないか」
その時、コウは笑っていなかった。
真剣な目で秀麗を見ている。
秀麗はコウをしばし見つめて・・・ゆっくりと閉じた。
コウが柔らかく笑む気配がして・・・・・秀麗は唐突に目を開いた。
そこには李木が。
コウは影も形も。
衣すら残ってはいなかった。
秀麗は手の中の櫛を見る。
彼の最後の言葉が蘇った。

―――十年後に

秀麗はそっと櫛を握り締めた。
そう。
十年経てば、すべてが分かる。







・やっと絳攸様脱出です。
 正確には帰りたくて出たのではなく、追い出された、とか、締め出されたという意味合いが強いのですが・・・。
 あまり上手く伝わらないのがトホホです。
 涙雨1で絳攸が気にしていた“袷の中の硬い物”と“組紐”がやっと書けました。
 涙雨14の直後に涙雨1を読むと、この話も終わったに等しいのですが・・・・もう少し続きます。
 本当にもうちょっとだけ。

              20080510