15 残され。待ち侘び。
 

静蘭は窓の梁の奥。雪が降り出しそうな昊を見上げていた。
思い出すのは“彼”の最期。
雪に熱湯をかけたように瞬く間に姿が溶けて消えてしまった一瞬。
静蘭は瞬きもせずに見ていた。草葉の陰から。
そして残された秀麗の横顔。
彼女の顔を見たくなくて静蘭は気配を消してその場を後にした。
そして“頼む”と言われた石頭共の元へ向かったのだ。
“彼”の顛末を話しに。
その時の彼等の顔は非常に見ものだった。
表情を作る事に長けた二人が、一瞬にして魂が抜けて愕然とする顔なんて、そうそう見られるものではない。
横槍をちょいちょい突いて静蘭は気晴らしをしたものだった。
そうでもしなければ、彼女の・・・秀麗の張り詰めた横顔が忘れそうになかったのだから。


絳攸は床にあぐらをかいていた。
周りにはずんずんと積み重なった本の山、書翰の束。
文字通り絳攸は資料に埋もれていた。
このような姿を黎深に見つかりでもしたら嫌味の一つや二つ・・・・いや、十や二十は覚悟すべきだろう。
絳攸は想像に易い姿を思い浮かべて浅く笑った。
疲れきっていた。
吏部の仕事をし、主上の仕事を手伝い、そして府庫に籠る日々。
思い出すのは自分と同じ顔をした男だった。
男は言った。
好きな途を選べと。
悔いを残すな、とも。
男がそう言ったのは、悔いだらけの人生を歩んだからなのだろうか?
そんな事、分かる術はない。
しかも一体どんな途を歩けば悔いがないのか・・・それすらも分からない。
好きな途・・・を絳攸は歩いているのだ。
好きな事をして後悔するなら、それも本望・・・だろう。
くらくらする額を押さえて絳攸は思う。
「ああ。
 邵可様に御礼をしに伺わないと」
ここ数日で絳攸は紅家の府庫、宮城の府庫、更には邵可邸の府庫までも漁っていた。
それでも。
人が時を移動する術については欠片とて見つかりはしなかった。
諦めるしかないだけの量を絳攸は調べつくしていた。
これ以上は本分である仕事に差し支えが出る。
絳攸はぐっと足を伸ばして大の字に寝転んだ。
幾つもの書物の山が崩れて雪崩がおきる。
震動と舞い上がるホコリと。
絳攸は静かに目を閉じた。


藍家貴陽別邸。
楸瑛が邸に帰ったのは夜の帳も重くかかった時分だった。
そんな時分にも関わらず彼の室は明るく整われている。
いつもの、当たり前の日常。
楸瑛はひとつ息をついた。
足が重い。
室の灯りは全てを照らし出してしまう。
何も見たくない時に限って・・・・ままならないものだった。
殊更ゆっくりと・・・否、いやいやながら楸瑛は机案に近づいた。
ついっと手を伸ばして机案の上の文の束を崩す。
数通の表紙にざっと目を走らせて楸瑛はふっと笑った。
苦虫を噛み締めたような顔で己に言い聞かせる。
「もし・・・。
 あるとしたら一番上に決まってるじゃないか」
楸瑛は椅子に座り背を預けた。
武人らしからぬ気の抜け切った姿だった。
それだけ楸瑛は疲れきっていた。
ここのところ毎日こんな調子だ。
邸に帰り文の確認をする。
そしてほっと息をつくのだ。
兄上達・・・・藍家当主からの命令。
双龍蓮泉の文がない事を確かめて。
目を閉じれば親友と瓜二つの彼の顔。
思い出すたびに気分を害した。吐き気すら覚えた。
彼はあまりにも隙がなさすぎて・・・・いらいらする。
忘れてしまえば、きっと自分は楽になる。
忘れてさえしまえば。
「私は、そこまで馬鹿じゃないんだ」
だから気づいている。
彼の言葉の中の真実。
双龍蓮泉の文は来るだろう。
近いうちに。
内容は、十三姫を後宮に入れろ・・・とか。
彼が・・・・コウが言ったとおりに。
楸瑛は、チッと舌打ちをすると席を立った。
嫌な事を考えない場所に行こう。何の解決にもならないけれど。
美味い酒を呑んで馴染みの妓の柔肌で眠りたい・・・強く、そう思った。


邵可邸の一室。
邵可は湯飲みを手にしていた。
湯飲みの中に茶は入っていない。
全て飲み干してしまっていた。
邵可は湯飲みに口をつける事も卓子に置く事もせずに手の中で感触を確かめていた。
卓子の上には、もう一つ湯飲み。
申し訳ない程度に一口だけ手がつけられていた。
客人は帰った後だった。
邵可は客人の顔色を思い出す。
少しやつれて覇気のない瞳。そして・・・
「忘れようと思います」
客人はそう言った。
それはコウが微苦笑しながら言った言葉を思い出させた。
「今回の“彼”の事は忘れようと思います。
 お貸しいただいた邵可様の府庫をはじめとして書物や文献の中に“彼”のような事例はありませんでした。
 縹家の術に関しては仙洞省が握りこんでしまっていて手も足もでない状態でしたし・・・・。
 諦める・・・事も出来そうにないので、忘れようと思います」
客人の言葉は相談ではなく決定した意思だった。
邵可は黙って彼の言葉を聞いていた。
反応の薄い邵可の態度に客人は焦ったようなそぶりで言ったものだった。
「ええっと・・・ですね。
 今は分からなくても・・・・10年経てば知識は広がっていると思うのです。
 それに、私が“彼”と同じ事になるかどうかも分からない。
 その時になったら考えます。その時に持ち合わせている知識で」
邵可は喉元まで出掛った声を飲み込んだ。
だからコウは邵可の元を訪れたのだ。
漁りきった書物の元ではなく。
今の邵可は十二分に知っていた。
コウがどのような手段をとったのか。どれだけの覚悟をしていたのか。
コウにとって“黒狼”はそれこそ最後の望みだったのだ。
自分は結局何も出来なかったけれど。
何もできない、何も意味がないと分かっていても・・・いつか邵可は語るのだろうか。
10年過去の世界でたった一人になってしまう彼の為に一縷の望みを与えるのだろうか。

―――私が黒狼だ・・・
と。
―――縹家を相手にして血雨を降らせた者だ
と。

邵可は湯飲みを手の中で転がす。
砕け散るぎりぎりの強さで。


秀麗は赤い花の櫛を丁寧に手巾でくるむと箱に収めた。
蓋をきっちり閉めてからそっと息を吐き出す。
絳攸が秀麗ではない誰かに送った櫛。
彼女は臨月なのだという。
「・・・・私では・・・ないわね」
自分に言い聞かせるように秀麗は口に乗せた。
言い聞かせて・・・・惨めな気持ちになる。
(私では・・・家族を増やす事はできない)
家庭を持つことは出来ても。
筆を持ちすぎて硬い胼胝がある彼の指。
その指で秀麗の知らない女性を触るのか、と思った瞬間に秀麗は身震いした。
茶州で秀麗を励まし続けたあの指が、手が・・。
秀麗はすくりと立ち上がった。
椅子が派手な音を立ててひっくり返る。
「ごめんなさい・・・絳攸様」
眉間に皺を寄せて秀麗は言った。
虚空を見つめる眼差しは揺れていた。
それでも、彼女は謝った。
絳攸から家族を奪ってしまう事に。
父親になる事を奪ってしまう事に。
(絳攸様がどう思われようと、あの人が妻を娶るというなら・・・)
彼・・・・は言ったではないか。
未来は変えられる、と。


季節は十、繰り返す。


夜更けの宮城は人の気配も少ない。
この時分ならば後宮や仙洞省の方が人の賑わいがあるだろう。
ましてや仙洞宮裏の禁池ともなれば人の気配など皆無・・・通常ならば。
「一日半・・・か」
ぽつりと男は言った。
「一日くらいなら・・・想定内だったが」
答える声も低かった。
お互いの腰にさしているのは花菖蒲の剣と天下の名刀干將。
いまや左右羽林軍の大将軍にまで登った二人は不気味なほど静かな池の水面を眺める。
一日くらいなら“むこう”にお邪魔しているとしても、飛ばされた人はいまだ戻る気配がない。
(ここで迷子になったら・・・・本当に見限るよ?絳攸)
楸瑛は心の中で溜息をつく。
李次官が消えた、という話が仙洞令君であるリオウからもたらされた時、楸瑛は“消えた”じゃなくて“何処かで迷ってる”の間違いじゃないかと疑ったものだった。
その場にいた秀麗が
「ちょうど10年ですもの」
と。
“消える事”が当たり前のように呟かなければ。
楸瑛と静蘭は、あっ、と息を飲んだものだった。
「リオウ殿も手を尽くしてはいるようだがな」
10年前は縹家の仕業か、と疑った静蘭であったが、事の詳細を聞いてコメカミを押さえた。
「それにしても」
そう言って楸瑛は口を噤んだ。
ギロリと静蘭からの視線をそっぽを向いてかわす・・・事が出来ずにポソポソと続ける。
「秀麗殿の手腕は見事だね」
「・・・・」
李次官が消えたとなれば宮城ひっくり返したような大騒ぎになるのは目に見えていた。
が。
彼女は情報を隠匿するのではなく、逆手にとった。
李次官が何者かに襲われた可能性あり、と。
絳攸が消えて半日。
噂は真実味を帯びて交わされている。
「絳攸殿周辺でキナ臭い話があったからな。
 一部の官吏はビクビクしているだろう」
「うまく縄が掛けられればシメタモノ、か」
楸瑛は想像して肩を竦めた。
ご愁傷様、と。
「秀麗殿は・・・絳攸を心配している暇もない・・かな」
ひっそりと確実に御史台は動いている・・・となれば、彼女は忙しく立ち回っているのだろうから。
「お嬢様は、官吏ですよ。
 主上の」
静蘭は瞑目するように瞳を閉じた。
「君も、私もね」
自分が秀麗の立場だったら、恐らく秀麗と同じ事をする・・・そんな事分かりきっているけれど。
それでも、と楸瑛は思ってしまい・・・苦笑するのだった。


秀麗はうとうとしていた。
ここのところ眠りが浅い。
身体は寝ているのに意識は起きているような感覚。
だからコレが夢だと秀麗は気づいていた。
「なんだかマトモな格好ね、龍蓮」
目の前の彼は(彼にしては珍しく)羽もなければ蜜柑も旗も立っていない。
腰にさした笛に手をかけず・・・・いや、何かを持っていた。
布にくるまれた・・・大根?くらいの大きさのもの。
「龍蓮?」
「楸兄上の友人」
ぽつりと龍蓮は言った。
彼の言葉は取りとめがない。
でも彼の言葉の隅々には非常に大きな爆弾が落とされている事がある。
未来も過去も、見通してしまうという彼の能力。
「絳攸様のことね
 まだ、戻ってらっしゃらないけど」
戻ってこれるのかも分からないけれど。
龍蓮は首を横に振った。
心配はせずとも、というように。
「世界は円でなければならぬ。欠ければ補おうとし、増えれば切り離そうとするのだ」
「・・・龍蓮」
「だから過去から切り離された。そなたの目の前で」
つまり、それは。
秀麗の心鼓がトクンと跳ねる。
だが、喜びきれない何かがあった。
彼の目が嵐の前のように静かだったからかもしれない。
穏やかすぎたのだ。
「この世界は欠けたモノを少しずつ補う。
 ほら、この通り」
龍蓮は手の中の大根・・・・いや、布をぱらりと開いた。
中からは、左腕が。




・え・・・と。
 すみません。この辺で一回切ります。
 過去と未来が入れ食い・・・じゃない、いりくってます。
 未来設定はウメの好きなように捏造。捏造。
 リオウ君あたり、原作でデスフラグが立たないとも言い切れないんですが・・・。
 その時はナマヌルイ目で見てやって下さい。
 現段階で原作は“琥珀”までなので。
           20080518