目が覚めた時、最愛の妻は泣いていた。
戻ってきた(彼女の身体を見れば)と実感する前に、彼女は怒りだした。
怒っているのだ。
何だか猛烈に秀麗は怒っている。
ドドドドドッと地響きがしてきそうだった。
既に一発平手がはいっている。
目は完全に覚めた。
「・・・・し・しゅうれい?」
その横で腐れ縁の親友は口を押さえて笑っていた。
目が合うと楸瑛は色っぽく片目をつぶってみせる。
(そんなことは奥方にだけしてろ、常春っ)
手だけ振って室を出る楸瑛の背中を見送り、
「絳攸様っ」
余所見がばれた。
絳攸は少し身動ぎをした。
居住まい整えて秀麗に向かい合う。
彼女は涙の跡を拭いもせず赤く腫らした目で睨んでいた。
(結局俺は、過去でも今でも泣かせて怒らせて・・・そればかりか)
それはちょっと・・・結構寂しい。
笑って欲しいと言ったのは嘘ではないのだから。
・・・そしたら平手が飛んできたのだが。
「秀麗。
 話があるんだろう?」
絳攸はそう切り出した。
秀麗が握り締めている小刀を見れば、たぶんきっと楽しい話ではないだろう。
秀麗は口をあけ、一度閉じた。
数拍後。
彼女のはっきりした声が響く。
「私は・・・謝りません」
平手の・・・事だろうか?
絳攸は眉をしかめる。
「それと。
 これは御約束ですからお返しします」
10年間預かった“紅い花の櫛”。
秀麗は袷から取り出すと絳攸に差し出した。
絳攸が無事に戻れたら返す約束だった。
絳攸が戻れなかったら、絳攸の奥方に渡す約束だった。
絳攸の“奥方”は秀麗だが、秀麗自身その資格はない、と思っている。
尋ねられなかった10年越しの質問を、秀麗は口に乗せた。
「10年前。
 絳攸様は仰った。
 覚えてらっしゃいますか?
 “想いを告げられなかった大切な女性がいる”と。
 それは誰ですか?」
絳攸は固まった。
・・・いや、そうきたか・・・
秀麗の言葉は直球だった。
勿論絳攸は覚えている。
絳攸にしてみれば“ついさっき”の事なのだ。
言わないと・・・・駄目だろうか?
ぴくりとも動かない絳攸に、しばし後、秀麗は苦笑した。
もういいです、と言う風に。
「これだけは、はっきりさせて下さいね。
 絳攸様の奥方は私です。
 譲れませんから」
そう言うと秀麗はぺたりと床に座り込んだ。
立っているのも疲れる。
絳攸は眉間の皺を少し深くした。
秀麗から手渡された・・・戻ってきた紅い花の櫛を見つめて、頭に沢山の疑問符が生まれる。
(何だ・・・この釈然としない、分からない話は?)
これではまるで浮気を弁明している夫のようではないか。
(いや・・・前にも確か)
それは去年の春あたり。
秀麗から渡された紅玉で揉めた・・・。
・・・・。
・・・・・・・・。
あ゛――――・・・・・。
(いやいや、待てよ。あれは)
絳攸はさーっと血の気が引く音を聞いた。
これ以上引いたら文字通り倒れてしまいそうなのだが。
絳攸は臥台から立ち上がると秀麗に手を差し伸べる。
秀麗は疲れたように従った。
のっそりとお腹を庇って立ち上がる。
絳攸は秀麗を臥台に腰掛けさせると、自分は秀麗の前・・・足元に胡坐を掻いて座った。
ツケはちゃんと払わないと雪だるま式に転がって身動き取れなくなる、と言っていたの誰だったか。
(金の問題だけじゃないんだな)
絳攸は秀麗を見上げる。
ここなら秀麗が俯いてもちゃんと表情が伺える。
さて。何から話そうか。
「紅玉は渡してきたぞ。
 静蘭に」
秀麗は目を剥いた。
「そう・・・ですか」
あれは去年の春。
秀麗が少し体調を崩していた頃だった。
夜な夜な秀麗はうなされ続けていたように覚えている。
『姫君』とか『奪った』とか。
絳攸には良く分からない言葉を秀麗はずっと口走っていた。
その後。
秀麗から絳攸に紅玉が渡された。
『手持ちの金子ではどうにもならない事だってあるでしょう』
と。
一見硝子玉に見えてしまいそうな大きさの良質玉。
絳攸はカッと頭に血が上った。
秀麗がうなされていた言葉と重なって、ありもしない事を疑われた、と思ったのだ。
つまり。
浮気をしているのでしょう、と。
『これだけの上玉なら、どこの質屋で換金しても足がつきそうだな』
そう絳攸は答えたはずだった。
紅玉は・・・金が必要なら足しにしろ、そう言われたと思って。
その後、春の除目であまりにもバタバタしすぎて流されるように忘れてしまっていた。
財布の奥にぽんっといれたままの紅玉も。
よくよく思い出してみれば、秀麗は“春の序目”ではなく紅玉の件から笑わなくなっていたのだ。
秀麗が少し震える声で言った。
「呆れました」
絳攸は頷くしかない。
「過去に行って・・・困る事もあるだろうって渡した玉だったのに。
 もう知らないって思いました
 絳攸様・・・本気で忘れていたでしょう」
過去に行ってしまう事。
秀麗は忘れたくても忘れられなかったというのに。
「すまない」
「もう絳攸様の為に笑わないって思いました」
「・・・・ああ」
「でも・・・本当は」
時間は一年を切った。
絳攸を失う為に迎える日々を泣かないように。
その辛さから逃れる為に怒ったのだ。
秀麗には、そんな事しかできない。
今も昔(10年前)も。
「悪かった・・・・気付けなくて」
「絳攸様は回廊で私の身体を気遣う事は出来るのに」
秀麗にとっては昨日の事。
寒い寒い蒼明宮の回廊で屈んだ“身重の秀麗の身体”は気遣えても心までは気付けない不器用な人。
そんな人を秀麗は好きになってしまったのだけれど。
秀麗はチクリと胸に痛みを覚えた。
この痛みとも長い付き合いになる。
「ねぇ。絳攸様。
 絳攸様の隣は誰にも譲れません。
 でも。でも・・・本当に駄目だったら・・・その時はちゃんと言って下さいね」
絳攸の片頬がビクリと震える。
・・・ああ。まただ。
絳攸は頭を抱えたくなった。
(やっと分かった)
秀麗と話が噛み合わない・・・釈然としない理由が。
秀麗は完全に“絳攸に女がいる”前提で話をしている。
そういえば去年の。
うなされていた秀麗の“戯言”は・・・。
「秀麗・・・」
秀麗は微かに笑ったようだった。
苦いものを飲み込んだような笑顔。
「この話は終わりにしましょう」
瞬間。まずい、と思った。
「まっ・・・」
怒鳴りかけて絳攸は口を押さえる。
「絳攸様?」
「決めている。
 怒鳴るのは止める、と。
 ・・・・胎教に悪いらしい」
ネチネチネチネチ・・・扇の奥で小言を言う養い親の痛烈な一言もあったのだが。
絳攸は口を押さえたまま考える。
どうすれば秀麗の誤解は解ける?
ちょっと一筋縄ではいかない厚い壁が・・・なんだか立ちはだかっているようだった。
ふいに楸瑛の言葉を思い出す。
『秀麗殿に想いを告げない・・・・って本気かい?
 ・・・・・いいけどね。君がそうしたいなら。
 でも誤解は・・・生まれると思うよ』
本当にその通りになった。
目を細めた絳攸の視界に紅い花の櫛。
思いの丈が詰まった紅い花。
「秀麗。
 あらためて・・・・貰ってくれ。
 秀麗の為に作らせたんだ」
秀麗は首を横に振った。
「それは。
 ・・・もう持っていたくありません」
即行断られた。
「何故だ」
「・・・・それは」
絳攸は(こういう話題では珍しく)切り込みどころを逃さなかった。
「俺が他の誰かに贈るとしたら、誰だというんだ?」
秀麗はウッと詰まった。
「そんな事は!」
秀麗は目頭に力を入れて抗議の声を上げる。
そんな事分かるはずがない。
「妓楼の誰か・・・とか。
 後宮の女官・・・とか」
もてるのだけは一応ちゃんと知っている。
「本当にそう思うのか?」
秀麗はむうっと口を尖らせた。
絳攸は女性の香りをさせて帰ってきた事はないし、女性関係の噂ひとつ立った例もない。
「そっそれに・・・さっき絳攸様は黙られましたけど・・・」
「『想いを告げた事がない大事な女性』か」
秀麗はこくりと頷く。
絳攸は腹に力を込めた。
言うつもりは、なかったのだけれど。
「秀麗に、言った事・・・なかったよな」
「!」
秀麗はぎょっと目を見開く。
胸を縛る何かが、するりと解けた。
一気に軽くなる・・・これは一体。
(え?・・・え?・・・ちょっと待って。落ち着くのよ、私)
そう。きっとこれは“やましい事がある夫の呆れた言い訳”だから・・・・そう教えてくれた珠翠は・・・幸せそうに笑っていた。
・・・・問題になる“夫”の性格と恋愛遊戯の経験値は・・・。
秀麗は跳ね上がった心鼓を無視した。
一生懸命、絳攸に女性の影を探す。
(もとは・・・・何だった?)
秀麗にしてみれば10年も前の事。
持ち物から女性の影が・・・何処かの姫君が。
それは良く覚えている。
でも持ち物って何だった・・・・かしら・・・・。
「佩玉の組紐・・・・」
ぽそり、と秀麗は言葉を零した。
「秀麗が作ってくれたな。
 手を少し怪我してて・・・・組目がいびつだからどうのって。
 俺は構わない・・・って話の事か?
 それがどうかしたか?」
秀麗はもごもごと口の中で言葉を転がす。
それでは。
それでは?
(・・・私・・・・私に嫉妬してたっていうの?)
「秀麗。
 過去は変わらない。
 俺が何度過去に行ったとしても」
10年前・・・あの世界で会った人達にとって“コウ”は未来でも、絳攸にとっては過去だった。
たとえ悔いがある人生だったとしても・・・・自分はきっと“変えない努力”をしてしまうだろう。
だから、過去は変わらない。
それなら・・・未来は変わって欲しいと願うのだ。
「・・・・」
「この10年。
 やり直しがきくとしても、やり直したいとは思わない」
「絳攸様・・・」
「命を狙われた事だって構わない」
秀麗は黙って頷いた。
「お前を妻に娶った事だってな」
秀麗は目を閉じる。
“主上の花”の二人であり、紅家の二人の結婚は結構強い反発があった。
絳攸は反発の全てを切って捨てた。
政治的にイロイロイロイロ立ち回った事を、絳攸は今でも苦と思ったことはない。
秀麗が手に入るのなら。
「気になっている事があるとしたら・・・・」
絳攸は少しだけ明後日の方を向く。
「お前に言われる前に・・・・結婚してくれと言い出せなかっ」
秀麗は慌てて絳攸の言葉を遮った。
思わず伸びた手で絳攸の口を塞ぐ。
そんな事・・・思い出させないで欲しい。
秀麗だって、ちょっとだけ押しかけた事を気にしているのだから。
秀麗は絳攸の口から手を引き剥がす。
「も・・・もぅ・・・いいです」
というか何だか止めて欲しい。
「いいのか?
 たぶん二度と言わないぞ」
秀麗はこくりと頷いた。
ちょっとバツの悪そうな秀麗の顔には、絳攸の知らないナニカが隠れていそうなのだが・・・・暴き出そうとは思わなかった。
秀麗が誤解するナニカは、絳攸の不用意な行動が原因なのかもしれないから。
いつか話してくれればいいと思う。
少し前から目を合わせてくれない秀麗を見て、絳攸は笑った。
(俺の浮気説は・・・・とりあえず落着か)
絳攸は秀麗の手首をやんわり掴んで引き寄せる。
綺麗な指先。
今、彼女は殆ど庖厨に立たせてもらえない。
養い親・・・秀麗の叔父兼義父は『揺するな歩くな走るな跳ねるな、出仕などするな』と心配のあまり寝込んでしまった。
同じ理由で洗濯も掃除もしていない滑らかな指先。
絳攸は秀麗の指先にちょんと唇を寄せて、そっと櫛を握りこませる。
秀麗の拒絶は・・・なかった。
紅い花の櫛。
絳攸は主上の想い人を妻にしようと思ったとき・・・・自分の想いは死ぬまで告げないと決めた。
告げない代わりに作らせた・・・世界で一枚の櫛。
絳攸は顔を真っ赤にしている秀麗を見上げる。
大事そうに櫛を握り紅い花に指を添わせて。
秀麗の雰囲気・・・醸し出す空気は毒気が抜けていた。
穏やかな優しさに絳攸は包み込まれる。
「秀麗」
絳攸は妻の名前を呼ぶ。
秀麗は、やはり真っ赤な顔でぷいっと顔を反らせた。
その顔すら愛おしくて・・・絳攸は立ち上がると秀麗の肩を引き寄せて抱きしめた。
両腕でしっかりと。
抱き締める腕がある事を、今ほど感謝した事はない。
少し涙が出そうだ。
ついでに甘えたら・・・・平手が飛んでくるかもしれない。
それでもいい。
絳攸はねだった。
「秀麗」
と。
少しの間、秀麗はぶつぶつぼやいていた。
『私が・・るのだ』とかなんとか。
絳攸は目を閉じて待つ。
炭がパチパチと爆ぜる音。
そして小さな囁きを聞いた。

「お帰りなさい、あなた」



龍蓮は笛から口を離すと、盛大に伸びをした。
雨は止んでいる。
雲も切れ始めた。
暦では春とはいえ、大雪の名残が舞うときもある季節。
朝晩の冷え込みは厳しいものがある。
龍蓮は暫し考えて貴陽を見下ろした。
「珠翠義姉上の饅頭を食べにまいろう」
少々小腹が減った。
かの人の味は心の友の味と良く似ている故、苦痛しかない邸だが我慢してやってもよい。
やがて雲の隙間から覗く星を見て龍蓮は微笑んだ。
明日はカラリと晴れ渡る。
暫くは雨も降るまい。
明け方、西の昊に架かる七色の虹が消えぬうちに心の友のもとを訪おう。
龍蓮はそう決めた。
心の友の晴々とした笑顔を思い浮かべて、心躍らせながら。





                了


【涙雨】と書いて、すれ違いと読む(←冗談です)。
そんな話で・・・本当にすみません・・・。
とりあえず、これでおしまいです。
因みに【涙雨】の意味は16話で燕青がまるまる語ってくれています。

あ。
そうだ!
実は龍蓮好きなんですよ。
絳攸様がいなかったら秀麗は龍蓮とお付き合いして欲しいと思ってます。
因みに劉輝は原作で堪能できるので、あんまり。
ただ原作の龍蓮ってデスフラグ立ってもおかしくないようなキワドイラインにいるような予感がして。
いや。まぁただの勘なんですけど。
それで涙雨に出そうか出すまいかずっと迷っていたのです。
夢ならセーフ?と思って15話にもいるんですけど。
結局ラストを締めて貰っちゃいました。

一応【涙雨】は、瑞祥のサイトSS全体の枠からはみ出ないように書いているので(布陣は別です)17話の伏線(張るつもりはなかったのに・・・)は別のSSで使うんじゃないかなぁと思っています。
もし出てきたらナマヌルイ目で見てやって頂けると。
 
さてと。
17話の一部分。
アレレ?と思った方は凄いです。
ありがとうございます。
ブログでチラリと書いた(覚えてる方っていらっしゃるんでしょうかね?)・・・今年のウメの初夢。
アノ初夢を何とかカタチにしたかった(結局全く同じにはならなかった・・・)が為に1話から16話を作ったという(馬鹿ですな)・・・なので17話だけは筋書きも何もありません。
好き勝手に書き散らかしてあります(拙宅の腰抜け絳攸様は本当に・・・溜息)。
ネタ帳の17話の頁を捲って“ラスト♪”と一文字書いてあるのを見た時、かなり脳味噌真っ白になったのは秘密です(←おいっ)。
読み辛い点も多いと思いますが、長らく御付き合い下さりありがとうございました(礼)!

                2008/06/01