【思惑】


その日、楸瑛は御機嫌だった。
午後の暖かい日差しが入る府庫の窓際で彼の朗々とした声が響く。
「・・・・―――
 その髪に挿した華の色と彼女の紅の鮮やかさが目を引いて思わず足を止めたんだよ。
特に容姿が良い訳でもないのに見ていたくなる何かがあったんだ。
そうしたら・・・・」
楸瑛の言葉は澱みなく延々と続いている。
そう、続いていたのだ。長いこと、ずっと。
秀麗は表情には出さずに嘆息をついた。
いい加減にしてくれ、が半分、女性の誉め言葉の多さに呆れ果てていたのが半分。
最初のうちは相槌など打っていたのだが、いつしかそれも疲れた。
何より。
秀麗は手元の真白な料紙を見る。
(す・・進まない・・・)
秀麗は絳攸と共にある調査をしていた。
秀麗の真向かいに座る絳攸は口を真一文字に引き結び筆を走らせている。
秀麗と絳攸の間には山のような書翰や本の数々が並んでおり言外に“忙しい”雰囲気がある・・のだが。
「・・・あの曲は舞うのが難しいというのに、すべるように肢体が動き始めて・・・」
秀麗は口を少し開いて、閉じた。
言葉を飲み込んだという方が正しいかもしれない。
そろりと投げた視線の先で絳攸の肩が微かに震えていた。
「・・・――その指先の爪の先までが洗練されていて。
 まるで背から羽が生えたかのように舞う姿は・・・」
フツフツフツ・・・
秀麗はそんな音を確かに聞いた。
絳攸の眉間の皺が深い。
表情はないように見えた。が、次の瞬間。
くっと絳攸は目を見開いた。
「っいい加減にしろ!
 この常春がっ」
絳攸は叫ぶと同時に書翰を投げつける。
厚みも重さも十分な書翰が空気を切り裂いた。
秀麗はそっと溜息をつく。
とうとう切れた。いや、よく持った、なのか。
視界の隅では書翰を難なく受け止めた楸瑛がにっこりと笑った。
「いい加減ねぇ。
 そうしたいのは山々なんだけど、とても素晴らしかったんだよ。
 この感動を私一人だけで味わうなんて勿体無いじゃないか」
ふっと温度が下がるのを秀麗は感じた。
絳攸は持っていた筆を擱く。
カタリと静かに静かに音が響いた。
ゆらりと立ち上がった絳攸はぎろりと楸瑛を睨み付けると室から出て行ってしまった。
無言のままに。


秀麗は、あーあと思った。
こうなってしまったら絳攸は暫く帰ってこないだろう。
「楸瑛様」
 楸瑛は目元を緩ませる。
「なんだい?」
「聞こうと思っていたんですけど。
 絳攸様を怒らせたのってワザとですよね?」
確信があった訳ではない。
だが、楸瑛の言動は異常過ぎた。
「まぁね」
楸瑛は微苦笑する。ばれてしまったか、と。
「何故ですかって聞いてもいいですか?」
「秀麗殿に可愛くお願いされてしまったら断れないね」
流し目ひとつ。
秀麗はびくりと筆を持つ手が震えた。
「・・・・ちゃかさないで下さい」
「そんなつもりはないよ。
 ・・・秀麗殿、目が怖い。
 そうだね。
 少し切れてでも発散させた方がいいと思ったんだよ。
 そうでなくても根を詰めすぎてしまう性質なのに・・・・今日で何日目になるんだったかな?君達は」
確かに疲労が溜まっている。
「そうかもしれませんが、もう猶予がないんです。
 今が正念場なんですよ?」
秀麗の言葉に恨みがましい響きがこもる。
ウンザリするほどの書翰の山。
半分がいまだ手付かずだった。
「秀麗殿。絳攸を甘くみすぎない方がいい」
そう言う楸瑛の顔は笑っていたが目は笑っていなかった。
絳攸の力量くらい見極めよ、と有無を言わせない無言の圧力を感じて秀麗は押し黙る。
沈黙が重くて秀麗はむぅっと口を尖らせた。
筆が進まない。
思考力も落ちたようだった。
何だか投げ出したい気持ちになった頃、絳攸は帰ってきた。


絳攸は席を外した事に謝ると、秀麗の傍にあった本の山を一つ引き寄せた。
「絳攸様っ
 いくらなんで・・・」
「いい。
 大丈夫だ。
 先にこっちの書翰をまとめておいてくれないか」
秀麗は絳攸の顔に少し見とれた。
焦りのない淡々とした表情。
何故こんなに落ち着いていられるのか。
固まった秀麗とは引き換えに、絳攸は筆にたっぷりと墨をつけた。
「・・・・え」
秀麗は目を見開いた。
(早い)
料紙に筆を走らせながら本を検索する。
その速さは室を出て行く前とは比べ物にならない。
秀麗は目に映るものが信じられなくて絳攸を凝視する。
しばらくして、ふと上げた視線の先に楸瑛が映った。
先程までの騒々しさはなく、逆に居たことに驚くほど気配がなかった。
楸瑛は窓から入る陽光に眩しそうに目を細めている。
緩やかに笑っているようにも見えた。
その顔はまるで。
―――甘くみすぎないほうがいい
秀麗は絳攸に差し出された書翰を開く。
絳攸を・・・自分の師を甘くみていた訳ではない。
思えばこうして一緒に仕事をするのは初めてだったと秀麗は気付いた。
勉強ではなく。
(絳攸様の凄さは勉強の時にも気付いていたじゃない)
何を今更驚いているのか。
彼の考え方。
頭の回転の良さ。
機転。
勉強を見て貰っていた頃から実感していたというのに。

――此処までこい

そう言って絳攸は秀麗に背を向けた。
一緒に仕事をしているというだけで秀麗は絳攸の背に手が届いたような気になっていたのかもしれない。
それは恐ろしい程の勘違い。
彼の言う“此処”は官位などの問題ではないと改めて思い知った。
秀麗は絳攸の衣の裾はおろか、彼の影すら踏める位置にいないというのに。
秀麗はそっと息を吐いた。
絳攸の端整な顔をみつめて、自分の筆を握りなおす。


楸瑛は完全に気配を消した。
もう邪魔をする気はない。
絳攸のこなす仕事量を楸瑛は重々知っていた。
(かなりの時間を迷子に費やしても人の倍以上の質と量をこなす男だからねぇ)
その男が此処数日、本調子ではない。
たったの数日で能力が落ちる姿など見たためしがなかった。
何を鬱々として仕事をしているのか。
楸瑛は秀麗を見る。
絳攸に負けじと筆を走らせる姿は微笑ましい。
彼女が負担に思わないように処理速度を合わせようなんて事をするから、己に歪みが出る。
馬鹿だなぁと楸瑛は思った。
(そんな事を“優しさだ”、なんて思う秀麗殿じゃないだろうに)
絳攸と秀麗の集中力を受けて府庫の空気すら変わったようだった。
これならば昊が暁に染まる頃には片が付く。
二人が筆を擱いた時、秀麗は一点の曇りもない笑顔で絳攸を見上げるだろう。
そして絳攸も又、何処か安堵した表情で切れ長の目を緩ませるに違いない。
その姿が目に浮かんで楸瑛はほくそ笑んだ。
不器用な二人を見るのは嫌いではない。
・・・・それなら自分は?
心の底から響く声。
楸瑛はそっと袷に手を置いた。
硬質な物に指が触れて、心がざわめく。
今は遠い美しい人を思い出し、楸瑛はそっと目を閉じた。





                    了
                 20081013


 原作では黎明の後になるのでしょうか。
 牢で作成した陳述書の話ではないです。さらに後、二人で仕事をしたら・・・という妄想捏造話です。
 秀麗視線と楸瑛視線と。
 相変わらず発展のない二人です。
 因みにウメ宅の楸瑛は絳攸大好きですが、それ以上に珠翠さんが大好きです。
 彼女の扇を触るだけで満足(・・はしてないだろう)。
 だって扇を開いてしまったら白檀の――彼女の香りが薄れてしまうだろう・・・・と。
 そんな拙宅の楸瑛さんですが、珠翠さんをあえて登場させるなら「うざい方ね」と一喝されそうな・・・。