・恋慕情



邵可は府庫の窓から夜空を見上げた。
梁の先には欠けた月。
雲ひとつない昊が広がっている。
もう幾刻もすれば昊は白みはじめるだろう。
動物の気配すら遠い静寂。
そんな時刻。
邵可はことり、という音を聞いた。
手にした書物を本棚に戻し奥を伺いみる。
書卓についた愛娘がうつらうつらと舟をこいでいた。
「秀麗」
声をかけても返事はない。
邵可はしょうがない、と微苦笑を浮かべると秀麗に近寄った。
細い肩に手をかける。
「秀麗。
 筆を擱いて仮眠室へ行くといい」
軽く揺すると秀麗はぼんやりと目を開けた。
「・・・・とうさま」
「ほら。
 頬に墨がついている。
 これじゃ進むものも進まない。
 一度寝て、それから続けなさい」
邵可は秀麗の頬を指で擦って見せた。
墨で汚れた指を見て秀麗は眉根を寄せる。
何か言いたい事があるようで「でも・・・」などとぼやいていたが暫くすると頷いた。
「・・・・少ししたら、起こしてくれる?」
「ああ。
 疲れていそうでも、熟睡していても。
 下手な気遣いはせずに起こすと約束しよう」
邵可は目を細めて言った。
酷な言い方かもしれないが、秀麗にとっては逆に安心する言葉だと知っている。
邵可の愛娘達は揃いも揃って頑固者だった。
・・・親に似た、とは思いたくない。
秀麗は約束を貰って頬を少し緩ませた。
蚊の鳴くような声で、寝るわ、と呟やく。
「おやすみ。
 ほら、筆は渡して」
秀麗はぼんやりとした目で握っている筆を見た。
邵可が手を差し出すと、誘われるようにして筆を渡しほてほてと歩きだす。
少し危なっかしい足取りだった。
(・・・まぁ、大丈夫だろう)
秀麗の小さな背中を見送って、筆を硯箱に片す。
と。
硯箱の中に使い古された一本の筆が納まっている事に邵可は気付いた。
毛先が洗われているところを見るとワザと捨てないでいるようだった。
「良い品だけど」
何故に?
邵可は首を傾げた。
秀麗が倹約家なのは承知しているが筆先が割れ、毛に触れれば抜けてしまいそうな品なのだ。
違和感という程のものではないが、少し気にかかる。
「・・・・ふむ」
暫くして、邵可は一息つくと硯箱の蓋を閉めた。
それと共に思考も閉じて切り替える。
府庫に新しい客が訪なったようだった。
どうしたものかな・・・・邵可はぼそりと呟いて顔に笑みを履く。
本当は“どうしよう”なんて選択肢はないのだけれど。



「絳攸殿」
邵可は訪った人物を見て少し目を丸くした。
絳攸は足取りこそしっかりしていたが・・・逆に言えばそれだけだった。
顔色は白いを通りこしてどす黒い。
目は落ち窪んで覇気がない。
ぐったりと肩を落とした背は、少し強く突けば揺らいでしまいそうだ。
「・・・・また・・・」
凄い姿で、と言いそうになって邵可は口を噤む。
彼の矜持を思って、少し言い方を変えた。
「顔色が・・・・よくありませんね。
 外は寒かったですか」
絳攸はどこか安堵した表情をした。
青白い唇が紡いだ言葉は、邵可が思ったよりしっかりしていて。
「ええ。
 夜明け前ですし底冷えが。
 こんな時刻に申し訳ありません。
 出来れば仮眠室をお借りしたいと・・・・」
邵可はきたな、と思った。
常ならばまったく問題ない申し出だった。

(でもねぇ・・・義従兄妹とはいえ秀麗と二人というのは、ちょっとね)

複雑な親心がマッタをかける。
どう言って断るべきか考えあぐねていると、邵可より早く絳攸が口を開いた。
「・・・仮眠室をお借りしたいと思ったのですが。
 その机案で構いませんので」
さらりとした口調だった。
まるで邵可の胸のうちを読んだように。
「絳攸殿」
「秀麗がいるのでしょう?」
疲れが滲んだ、それでも綺麗な微笑を絳攸は浮かべていた。
華やかさよりも温かみのある優しい目で。
邵可は絳攸の視線の先を追う。
「硯箱・・で気付かれたのですか?
 奥に秀麗がいると」
「・・・ええ」
邵可はなるほど、と思った。
絳攸は秀麗に国試の勉強を教えていた時期がある。
その時に見知っていてもおかしくはない。
邵可は苦笑した。
余計な気を使わせてしまったらしい。
「絳攸殿。
 お心遣いありがとうございます。
 仮眠室から毛布を持ってきましょう。
 ああ、そうだ。
 暖かいお茶も淹れますので、是非どうぞ」
絳攸は頬をひくりと痙攣させた。
「も・・・毛布だけで十分です」
「遠慮など無用。
 せめて身体を温めてからお休み下さい」
邵可は微笑んだ。
国試組なら―――少なくとも叩き上げられた官吏なら机案で突っ伏して熟睡できるくらいの妙技は身に付く。
それでも、横になって休んだ方がずっと楽な事は考えるまでもない。
なればこそ疲労回復に効果がある茶くらいは飲んで欲しい。
邵可は絳攸に椅子を勧めると茶器の準備を始めた。



絳攸は椅子に座ると一息ついた。
何刻から歩いていたなんて思い出したくもない。
足は重く筋肉がぱんぱんに張っていた。
珍しい事でもないが。
近くに置いてある火鉢からパチンと火の粉が跳ねた。
室の暖かさが絳攸の冷え切っていた身体に浸透していく。
同時に猛烈な睡魔が絳攸を襲った。

(まずいな)

邵可が戻ってくるまで起きていられる自信がない。
まぶたがトロトロと落ちるのが止められなかった。
通称・父茶の味を思い出すと睡魔に負けてしまった方が幸せな気もするのだが、好意を無駄にしたと知れれば義父にコテンパンにされるのは目に見えていた。
それならば、尊敬する邵可のお茶を飲んで落ちたい・・・・いや寝た方がマシだと絳攸は思う。
目を閉じコメカミを少し強く揉む。
眠気が少しでもおさまるようにと始めたのに、筋肉がほぐれるにつれて更なる眠気が襲ってきた。
目を開けなくては。
身体に言い聞かせ、根性で薄っすらあけた瞳に映ったのは秀麗の硯箱。
邵可には言わなかったが・・・言っても別に構わないのだが・・・・あれは絳攸が贈ったものだった。
銀をちらした螺鈿細工の硯箱。
秀麗が貴妃時代、必要に迫られて楸瑛と二人いろいろな物を贈った―――というか差し替えた。
その中の一つ。
・・・・まだ、使っていたのか。



邵可が茶器を持って絳攸のもとへ戻ると、絳攸は安らかな寝息を立てていた。
腕枕に肩頬を預けて眠る顔は幸せそうで、邵可は思わず目元を緩ませる。
さて、今度は毛布を持ってこなくては。



秀麗は身体をビクリと震わせた。
はっとして両目を見開く。
(っ寝過ごした・・・?)
布団を跳ね除けて身体を起こすとキョロキョロと辺りを伺う。
どくりどくり、と気持ちの悪い心鼓が耳障りでたまらなかった。
半蔀を恐る恐る開く。
冷たい空気が流れ、白み始めた昊が。
―――間に合った。
いっきに緊張が抜けて、疲れが押し寄せてくる。
良かった。
焦った。
思わず顔が緩む。
頭もすっきりしていた。

(大丈夫。続けられる)

よしっと気合をいれて秀麗は府庫への扉を開けた。
府庫は薄暗い程度の灯りが残されていた。
そういえば。
起こす、と約束してくれた邵可はどうしたのだろう。
実際には起こしてもらう前に起きてしまったのだが。

・・・と。

秀麗は机案で頭から毛布をかぶっている人姿を発見した。
「そうよね。
 父様だって疲れてるわよね」
夜を徹して調べ物をする度に、邵可は“府庫整理がある”と付き合ってくれる。
特に助言をくれる訳でもなければ、立ち入った事を聞かれもしないのだが・・・・見守ってくれているのを知っていた。
それにしても。

(父様の寝姿って初めて見るかも)

どんな夜更けに邵可の室の扉を叩いても必ず起きて迎えてくれる。
それでも寝ていないはずはないわけで。
秀麗は机案で眠る邵可に近づいた。
頭から毛布に包まれた背が微かに上下する。
真後ろに立って声を掛けた。
びっくりさせないように、そっと、そっと。
「・・・とうさま・・・」
起きる気配はない。
起こしてしまうのは忍びないが、どうせなら奥で横になって貰いたかった。
大きな背に手をかける。
少し揺らして・・・・・それでも起きる気配はない。

(父様・・・・寝起き悪いのかしら)

毎朝起こす前に起きてくるので、ちょっとした発見にフフッと笑う。
それにしても。
揺すって起きないのなら・・・。
秀麗は口角を上げた。

(少しだけ甘えさせて貰ってもいいわよね)

今度は一転“起きませんように”と願いつつ大きな背に腕をまわす。
暖かい背をきゅっと抱きしめた。
頬を押し当てて目を閉じる。
母が死んだ時。
邵可と静蘭は抜け殻のようで。
そんな二人を目の当たりにしたら、秀麗は動かざるをえなかった。
家事を引き受けて、賃仕事に出た。
邵可と静蘭と・・・残された家族に笑って欲しかった。
だから。
だから我慢した。
悲しみも甘える事も。
いつか我慢は気にならないくらい“普通”になってしまったけれど。
本当はあの時、こうして縋りついて泣きたかった。
もっとずっと甘えたかった。
少しだけ目頭が熱い。
「・・・・父様のばか・・・・」
言葉にすると、心の奥がすっと軽くなった。
「それと、いつもありがとう・・・」
秀麗は毛布を引く。
“ありがとう”だけは背中じゃなくて、ちゃんと言いたい・・・。
「ヒッ・・・」
毛布が秀麗の足元に落ちる。
そして。
「・・・ヒッ、とはなんだ・・・」
少し不機嫌な絳攸の目に、秀麗は凍りついた。




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