【闇夜】


 月明かりのない闇夜。
 地上では星の瞬きが一層鮮やかに目に映る。
 日付はまもなく変わるだろう。
 そんな時刻。
 絳攸は一人外朝の軒宿りに足を運んでいた。
 こんな夜は闇夜に紛れて悪意が潜んでいたりする。
 しかし、絳攸を包む空気に不穏な色はなかった。
 見上げた星を堪能しながら絳攸は満足げに呟いた。
 「・・・さすがだ」
 すると、予期せず答えが返ってきた。
 「何の事だい?」
 ぎょっとして絳攸の肩が小さく跳ねる。
 聞き慣れた声音に息をつくと絳攸は言った。
 「気配を殺して近づくな」
 絳攸は視線だけを後ろに飛ばす。
 「今帰りか?楸瑛」
 「君も相変わらず遅いね。
  秀麗殿が首を長くしているんじゃないのかい?」
 「今は赤子にかかりっきりだからな」
 「夫の面倒までは見てられないって?」
 くすくす笑う楸瑛に絳攸は鼻を鳴らす。
 「そういうお前はどうなんだ?
  こんな時刻に帰ったんじゃ嫌味の一つや二つ覚悟するようだろう」
 楸瑛は自他共に認める色男だ。
 絳攸にしてみれば頭が沸いているだけにしか思えないのだが。
 「彼女から貰えるなら嫉妬も嬉しい限りだよ」
 絳攸は目をつり上げる。
 まさかワザと帰りを遅くしているわけじゃあるまいが。
 「・・・・こじれてしまえ」
 「君がそんな事言うなんてねぇ」
 楸瑛は楽しそうに声をたてて笑った。
 ぼそりと呟いた絳攸の言葉を正確に聞き取っていたらしい。
 「それで?
  何かあったのか?
  武官が騒々しいなんて、耳に届いてないぞ」
 「まぁ、ね。
  今日に関してはくだらない事だよ。
  君の件が落ち着いてから静かなものだ」
 楸瑛が軽口に乗せた内容に絳攸は黙りこむ。
 「一手がもたらす相乗効果。
  だから・・・さすがだろう?」
 絳攸に表情はない。
 腐れ縁として楸瑛に見せる顔から一変して冷徹な文官の顔が浮かび上がっていた。
 楸瑛はくつりと喉で笑う。
 (やはり、星空を褒めていたわけではなかったか)
 驚かせようと幼稚な事を考えて絳攸に近づいた時、彼にしては珍しく何かを褒めていた。
 絳攸の褒める≠ヘ非常に壁が高い。
 結果として彼はあまり褒める事をしないのだ。
 楸瑛は一手≠ノ思い当たる節があった。
 「・・・腕利きの御史台殿か」

 絳攸は一ヶ月程前に今上帝にある政策≠奏上した。
 諸々批判があった政策は、絳攸自身の身辺に良くない噂が飛ぶ程。
 身が危ういと囁かれる中、絳攸は意図せず朝廷から姿を消した。
 何がどうなったなんて今でも分からない。
 言うなれば不可抗力。
 だが、その状況を御史台は利用した。
 絳攸の姿が朝廷から消え右に左に情報が錯綜した中、御史台は虎視眈々と李絳攸≠フ周辺を一掃したのである。
 朝廷に戻った絳攸は御史台の仕事を苦笑しながら言ったものだった。
 「見事だ」と。

 そして、今。
 こんな闇夜に一人歩きをしても、彼の周辺は静かだ。
 「秀麗は・・・少し休ませてやりたいと思っている」
 「身内としての意見かい?」
 「それもある。
  それに秀麗を外朝に呼んだ責任としての意見でもある」
 「で、その代わりに君は黙々と働いているワケか」
 「棘があるな」
 「ちょっと異常だからかな。君の仕事量が。
  ちゃんと休んでるかい?」
 「言われなくても」
 表情のない絳攸を横目に見ながら楸瑛は溜息をつく。
 誰を煙に巻こうと言うのか。
 「普通はさ。
  奥さんが身重だったり子育てにかかりっきりになってしまうと、男って他に癒しを求めるものなんだと思っていたんだけどねぇ」
 「おい」
 「君ったら真面目に仕事ばかり。
  さらに最近はメッキリつきあいが悪いよね」
 楸瑛は目を細めた。
 絳攸は酒宴の席を出来るだけ回避している雰囲気がある。
 親しい仲間内ですら、だ。
 「楸瑛。滅多な事をいうな」
 何が足をひっぱるか分からない政事の世界。
 絳攸自身、散々ひっぱり堕としてきたのだ。
 その逆も。
 「君が仕事でぶっ倒れるような事にならなければ・・・・こんな事を口には乗せないよ。
  此処≠ノ戻ってから君は・・・何か・・・償うかのように仕事に熱中しているから」
 少し心配なんだよ。
 楸瑛は足を止めた。
 絳攸はやれやれと溜息をついて振り返る。
 「彼方≠ナ。
  ・・・・過去の自分を見て・・・そうだな。
  少し初心に返った。
  それだけだ」
 そこには自嘲の響き。
 「絳攸」
 楸瑛は眉間に皺を寄せる。
 過去に行くという事は未来を変えられる力を持つ事だ・・・楸瑛はそう思う。
 自分なら・・・どう判断を下したのだろう。十年前に戻ったなら。
 ただ、何をどう判断しても後悔が残りそうな気がするのだ。
 だから楸瑛は絳攸を心配する。
 彼が後悔に苛まれて仕事に没頭しているのではないか、と。
 絳攸は楸瑛の顔を見て一笑にふした。
 「何を気がかりな事がある。
  俺は、大丈夫だ。
  それに・・・・お前さっき癒し、と言っただろう。
  酒に勝るものが今はあるからな」
 その穏やかな表情に楸瑛は鼻を鳴らした。
 「赤子の寝顔とか言うなよ」
 親の表情をするようになった親友に。
 「な・・・そ・・。
  それだけじゃないぞ」
 慌てたように言う絳攸に楸瑛は吹き出した。
 半分くらいは図星を当てられたようだ。
 楸瑛は意気揚々と歩き出す。
 笑っていられるうちは、きっと大丈夫だ。
 この先、どんな未来と過去が迫ったとて。
 「おいっ・・・こら楸瑛!
  聞いているのか」
 楸瑛は絳攸を先導しながらカラカラと笑った。

 自宅に戻った絳攸はうっすらと灯りがともる室に足を踏み入れた。
 奥から人の動く気配と、ほのかに香る甘い甘い香り。
 乳の匂いだった。
 生まれたての赤子は数時間に一回の割合で御飯をねだる。
 こんな夜更けでも、だ。
 この甘い香りが・・・・癒されると言ったら、楸瑛はどんな顔をするだろう。
 そして。
 「お帰りなさいませ。
  絳攸様」
 腕に小さな赤子を抱き、満面の笑みで出迎える秀麗に絳攸は顔を崩す。
 「ああ。
  今、帰った」



      了

2009/07/5



 【つかの間の】の続きになります。
 涙雨の本編で絳攸は一言も「ただいま」を言っていないので、言わせてみたかったのですよ。
 ちょいっと心残りだったので(いや、心残りは他にも沢山あるんだけれども)。