地下牢の暗闇に慣れた身体がざわざわと騒ぐのを絳攸は感じた。
世界が生きているのだと。


【薔薇】


夕刻。
秀麗は城に戻る為に茜色の昊の下を歩いていた。
絳攸の御史大獄は終了し、やっと一息ついた処だ。
というか、やっと一息ついたら物価の高騰に改めて眩暈がしたわけだが。
自分が一体どれだけ御史大獄に心血を注いでいたか・・・。
秀麗は絳攸を救えるとは思っていなかった。
無罪、という意味で。
罪は贖わなければならない。
だから、秀麗が望む 救う=@とは、官吏として残す、という意味だった。
その落としどころ。
この件については絳攸と相談をしていたわけではない。
だから、正直御史大獄が終わった時・・・秀麗は緊張をしていた。
なんと言って絳攸に顔向けをすればいいのか。
秀麗にとっては何ら恥じる事のない弁護だと・・・・自分の実力を正当に分析すれば・・・
・・・やりきったと思っている。
それは間違いない。
でも、仕事脳が少し落ち着くと、途端に騒ぎ出したのは絳攸を思う感情の方で。
だから秀麗は絳攸の顔を見ると開口一番謝った。

「すみません絳攸様!」
と。


秀麗はその時の事を思い出して少し笑った。
何故謝る、と不思議そうな顔をしていた絳攸に秀麗は目頭が熱くなった。
よくやった、と褒めてくれた言葉に胸がきしむように締め付けられた。
努力が報われた・・・・身体の隅々の感覚が騒ぎ喜んでいる事を秀麗は感じていた。
絳攸様だ・・・と。
やっぱり、貴方だと。
秀麗は改めて実感したのだ。

その時。
甘い香りが風に乗って秀麗の鼻をくすぐった。
思わず足を止めて、風上を見やる。
「・・・何の、香り?」
少し懐かしい感じがした。
城に戻らなければ、という理性を無視して足がふらりと動きだす。
甘い香りを追いかけて、いくつか道を曲がった先に。
「わ・・っ・」
目を見張った。
飛び込んできた光景に足が止まる。
地面に縫い止められたように、秀麗は動けなかった。
そして。
視線の先にいた人もまた、ゆっくり振り返って、
「・・・秀麗?」
少し陰りを潜ませた微笑で絳攸は彼女の名を呼んだ。



「絳攸様」
秀麗はぱたぱたと絳攸に走り寄った。
足は勝手に動き出した。
先程まで固まっていたのが嘘のようだ。
「っ。絳攸様。
 こんなところで・・何をっ?」
秀麗は息を切らせながら絳攸に尋ねる。
長い距離を走ったわけでもないのに、どっと疲れが押し寄せている。
秀麗は少し疑問に思った。
けれど絳攸を前にしては些細な問題だった。
「・・・・無理をするな」
絳攸は眉間に少し皺を寄せて言った。
「?」
「ろくに寝てないんだろ?
 疲れがたまりきった顔をしている」
「そんなこと・・・」
「まあ。
 無理をさせたのは俺のせいだがな。
 すまな・・・」
「っ絳攸様」
謝ろうとする絳攸を秀麗は慌てて遮る。
「私は・・・私の仕事をしたんです。
 だから」
謝らないで下さい。
秀麗は視線を落として呟いた。
確かに体調はすこぶる良くない。
睡眠とか疲れとか。
そんな問題ではないくらい、良くならない。
では、何が原因かと問えば。
秀麗は答えを知っているようで、知らなかった。
知りたくないと思っているからかもしれない。
「秀麗?」
どうした?と問う絳攸の視線に秀麗は曖昧に笑った。
体温のない両手をきゅっと握りしめて。
「何でもないです。
 それより・・・・凄いですね」
絳攸は一度眉をひそめて、それから苦笑した。
「そうだな。生命力に溢れている感じだ」
秀麗は絳攸の言葉につきんと痛みを感じたが無視をして見上げた。
その花を。
「まさか薔薇の花を下から見るとは」
絳攸より更に丈のある薔薇の木が昊に向かって花咲いている。
秀麗は薔薇の香りに誘われたのだ。
夕焼けの赤い光に染まった紅い大輪の山。
清廉で甘い・・・両極を備えた香りは、まるで亡き母を思わせるようだった。
だから懐かしいと思ったのか・・・。
「部屋に飾られるのは、手入れが行き届いた花だと・・・改めて思うな」
「?」
「本来薔薇は野性的だからな」
「野性的、ですか?」
秀麗は小首をかしげる。
薔薇を褒めるにしては、らしくない言葉だ。
「庭師泣かせな花だそうだ。
 肥料は大食らい。
 種類によってはがんがん伸びて男の背丈以上になる。
 見目を良くしようと枝を揃えようにも・・・」
「っ絳攸様」
思わず秀麗は悲鳴を上げた。
絳攸は薔薇の枝に腕をいれて木をかき分けたのだ。
「この木の太さと棘だからな」
秀麗は目を剥いた。
この大輪の薔薇の木は、秀麗の腕より太い幹を持っていた。
枝先に行くにつれ細くはなるものの、それでも部屋に飾られるものと比べると
はるかにしっかりしている。
いや、冷静に考えれば手のひら大ほどの花を咲かせているのだ。
茎がしっかりしていなければ重さに耐えきれないのだから当然なのかもしれないが。
なんだか、手折る、という言葉が泣いて逃げていきそうだ。
棘にしても・・・・。
「・・・って。
 手をっ。
 絳攸様」
秀麗の指先以上ある大きさの棘がぷすりぷすりと絳攸の腕を刺している。
絳攸は力尽くで薔薇の枝をかき分けていた。
絳攸の白い肌を棘が引っ掻き、腕には紅い鮮血が滲んでいる。
「ん?
 ああ。
気にするな」
秀麗は絳攸の腕をとり、もういいです、と引っ張る。
「気にします」
ぷうっと頬を膨らませて秀麗は言った。
でも、何だって絳攸は秀麗に薔薇の幹を見せたのか。
いや、そもそも。
「生きている、と思ったんだ」
絳攸は秀麗の疑問をくんだように答えた。
「・・・それは、薔薇だって」
「いや。
 そういう事じゃない。
 そうだな・・・」
何と言えばいいか。
絳攸は軽く目を伏せて、口を開いた。
「俺が地下牢から初めて地上に出た時。
 思わず足が竦んだ」
「え?」
「灯りがあったとはいえ、地下に慣れすぎていたからな。
 太陽の光があんなに眩しいとは思わなかった。
 見上げた昊の青さ。
肌を刺す太陽の熱。
耳に届く虫の声、風にそよぐ木々のざわめき。
足の裏から伝わる土の軟らかさ。
空気の味。
これが光のある場所かと、思ったんだ」
絳攸は不覚にも泣きそうになった。
まだまだこれからだというのに、もう何もかも良くなっていた自分がいた。
世界が生きていた。
生のある場所だと感じた。
囚われの夢から覚めたのだと、改めて実感した。
絳攸は穏やかな目で秀麗を見つめる。
ここに立っていられる事の感謝を。
目の前の少女に。
言葉にはせず、絳攸は秀麗の頭をぽんぽんと撫でた。
きっと、今言っても、彼女には伝わらない。
この感覚を 仕事だからやったまで=@と括られてしまうのは少し悲しい。
絳攸はそう思った。
「牢を出たあの日から。
 ・・・・・そうだな、強く生きるものを目に留めるようになった」
「絳攸様」
「主上を考えれば、本当はそんな暇はないんだが」
今や朝廷の勢力図を真二つ・・・・いや、王の勢力は追い詰められた状況にまで至った。
絳攸は顎に手を当てて思考を模索する。
まだ、何かある。
まだ、見えていない何かがある。
この不安は、きっと的中するだろう。
その時。
ふっと頭上から甘い香りが落ちてきた。
絳攸の思考が中断する。
「秀麗?」
秀麗は茎を一本とって薔薇の木をゆさゆさと揺さぶっている。
「薔薇の香りって心を穏やかにするそうですよ」
秀麗は笑った。
基本、秀麗も絳攸も仕事一辺倒な人間だ。
でも、今この時ぐらい。
無粋な事を考えるのは置いておいて。
「秀麗・・・。
 棘が危ないから・・・もう揺らさなくていいから。
 って、ちょっと楽しんでるだろ」
「しょうがないです。
なんか子供の頃みたいな事してるな―って思ったら楽しくなってきちゃったんですよ」
見惚れるくらい優しい表情をする絳攸。
しかも秀麗は彼を独占していて。
秀麗は無意識に笑っていた。
心から。
「秀麗」
絳攸は軽く溜息をつくと、秀麗を後ろから抱き寄せるようにして薔薇から引き離した。
「っ!」
絳攸の腕の中にいる秀麗の顔を知ってか知らずか、絳攸は淡々と言葉を継ぐ。
「薔薇は強い木だが、病気にかかりやすくて虫がつきやすい。
強さと弱さが表裏なんだぞ。
  その辺も庭師泣かせな由縁なんだろうが・・・。
 そんな無茶をしてやるな」
「こ・・・絳攸さ・・ま」
絳攸はぴくりと柳眉を曇らせる。
「なんだ・・・。
 こんなに冷えて」
その言葉に秀麗の身体がびくり、と震えた。
「もう日も落ちたな。
 この時期は日が落ちると急に気温が下がるからな。
 あまり薄手で出歩くな」
絳攸はそう言うと上衣を脱いで秀麗をすっぽり包み込む。
「!」
もう、何がなんだか。
秀麗は眩暈がしそうになった。
恥ずかしくて真っ赤になった顔を下に向けて。
絳攸に顔を見られないようにと願う。
日が落ちたとはいえ、顔色ぐらいは判別がつくだろうから。
「ほら、行くぞ」
そう言われて秀麗は手を取られた。
絳攸に引っ張られるようにして歩く。
暖かい、大きな手。
「ど・・・ど、どこへ?」
「城」
「・・・・」
「そろそろ帰らないと、まずいんじゃないのか?」
・・・。
・・・・・・・えぇ、まぁ。
秀麗は心の中でほろりと涙する。
絳攸の上衣をきゅっと握りしめた。
絳攸様って・・・・これって・・・天然なのかしら。
「お前以外には捕まらない」
秀麗の心鼓がどきんと鳴った。
今、なんて?
それって・・・。
見上げた絳攸の表情は真剣そのものだった。
「絳攸様」
絳攸は一度足を止める。
秀麗を振り返り繋いだ手に力がこもった。
「御史台だろうが・・・陸清雅だろうが、な。
  お前以外には、もう捕まらない」
例え、楊修様が動いていたとしても。
秀麗は目をぱちくりした。
そして笑った。
(やっぱり、天然かも)
この状況で 捕まる=@なんて言葉を持ち出すから・・・
その恋の・・・なんて、秀麗は思ってしまったのだ。
だって、秀麗は好きだ、と絳攸に宣言している。
貴方を捕まえてみせる、と。
なのに、この人は。
淡い期待は儚く消えた。
それでも、秀麗の思いは変わらない。
きっとこれからも。
秀麗は口角を少し上げた。
「それって、私以外の御史には捕まるような事をするって事ですか?」
絳攸は秀麗を暫くみつめて、にやりと笑った。
「絳攸様!」
絳攸と秀麗はぎゃいぎゃい騒ぎながら連れだって歩く。
秀麗はふと思った。
きっと城に戻ったら睡眠をとった以上に仕事の効率がいいだろう、と。
・・・・。
城に・・・戻ったら?
「!
 絳攸様!
 お・・・お城なら、こっちの方が近道です!」




     了
        2009/11/01




 ・すっかりご無沙汰してますSSです。
  黒蝶の感想SSです。
  とは言っても、恋慕情の内容が一部入っているので。
  まぁ、単に『秀麗は以前絳攸に告白している』が前提の黒蝶感想SSですな。
  なんじゃそりゃ、って感じですが、原作が暗いから・・・・あれ?
  原作って暗いですよね、今。
  ちょっとほんわかしようと思って、絳攸が少し甘めです。
  誰、アンタ?
  とか、ちょっと思いました。
  だって、拙宅の李姫の二人がぎゃいぎゃい騒ぐってありえない・・・・。
  黒蝶を読んだ瞬間に、ラストに落ち込むより、宰相様に呆れるより、
  頁135の絳攸様に心奪われましたよ。
  『秀麗以外につかまるか』
  このトキメキ(?)だけで書いた話です。
  ラストはお約束ですが。
  では〜。