【雪ひとひら】 朝から昊を覆う雲は低く暗く。 凍みるような冬の空気は骨の髄まで。 こんな日は。 「寒いねぇ」 府庫の窓を開け放ち楸瑛は昊を見上げる。 絳攸は本を探す手を止めて窓際の楸瑛に視線を送った。 恨めしそうな目で睨む。 「だったら窓を閉めろ」 「うーん。そうなんだけどね」 そう言う楸瑛の吐く息は白い。 急激な冷気を足元に感じる・・・瞬く間に部屋の温度が下がったようだった。 これではいくら炭をくべても意味がない。 「おいっ楸瑛」 「・・・ああ。やっぱり」 楸瑛は昊を見上げて目元を緩ませる。 「絳攸。 降ってきたよ」 絳攸のイラつきなどお構いなしで、子供がはしゃぐかのように楸瑛は昊を見上げた。 絳攸は舌打ちをしたあと窓の外に目をやる。 白い羽がふわふわと舞い降りていた。 「雪・・・か。 積もるだろうな」 絳攸は雪に良い思い出がない。 黎深に拾われる前の記憶が強すぎるせいかもしれなかった。 紅家に迎えられる以前・・・雪の日は暖を十分に取ることができず室の中で身体を縮こませていた。 カタカタと震える身体。肌の色も爪の色も青白かった。寒さは痛みだと思い知った。 夜ともなれば、さらに体温は奪われ・・・世界から音が消えるのだ。 しん、とした静寂。 夜鳥の声さえ届かず生の気配がない。 時折、木から落ちる雪の音が耳について、思い出したように心鼓がドクリと鳴った。 そんな冬のある日。 絳攸は山に置き去りにされた。 それに引き換え―――。 楸瑛は言うのだ。『儚いねぇ』と。 微笑さえ浮かべて。 育った環境の差と言えばそれまでなのだが、絳攸は何故か心までも冷えていく気がした。 ふと、絳攸は面を上げた。 扉が閉まる微かな音。 振り返ると頬を真っ赤にした秀麗がいた。 「絳攸様、楸瑛様。 こちらにいらしたんですね。 ・・・あのぅ、なんで窓開けてるんですか?」 流石に秀麗も室の異常な寒さに気付いたらしい。 窓に寄って御機嫌な楸瑛を少し呆れた顔で見る。 「生きているって気がするんだよ」 楸瑛は目元を緩ませて言った。 「はい?」 秀麗は首を傾げる。 「子供の頃・・・よく山で遭難した、と言ったら笑うかな?」 絳攸は耳を疑った。 それは秀麗も同じだったようで。 「楸瑛様が、ですか?」 「お前が、か?」 二人同時の反応に楸瑛は笑い飛ばす。 「知っているかい? 雪山で吹雪かれると世界が白くなるんだよ。 伸ばした指の先すら雪で見えなくなる。 誰かと一緒にいたとしても、相手が白っぽい衣を着ていたら雪の白さに溶けて見分けられなくなるんだ。 そして一歩が踏み出せなくなる」 「歩けないって事ですか?」 「そう。 怖くてね。 足元も景色も全て雪に埋もれているから一歩先が道なのか崖なのか分からないんだ」 「そ・・」 秀麗は『壮絶ですね』と言おうとして止めた。 そんな言葉では片付けられない重みがあった。 「呆然となったあと、沸き起こる感情は怒りなんだよ。 “生きてやる”ってね。 それをひたすら繰り返すんだ」 絳攸ははっと顔を上げた。 それは、まさしく。 「こんな所で終わってたまるか、か」 子供の頃、奥歯を噛み締めて自分に言い聞かせた詞をこぼした。 楸瑛も絳攸の言葉に一度目を細める。 確かめる言葉など必要なかった。 追い詰められた人間のみが知る本能。 人も獣だと再認識せざるおえない貪欲な野生。 楸瑛は窓から手を伸ばし羽のような雪をすくって握りつぶした。 手から水滴がこぼれる。 舞い散る姿は儚くて美しいとさえ思えるのに。 秀麗はそっと絳攸の衣の袖を握った。 「絳攸様も楸瑛様も・・・。 知らない方のような顔をされています」 絳攸は微苦笑すると、秀麗の手に触れる。 小さな手は青白くて少し震えていた。 絳攸は秀麗の手を引くと炭鉢のもとへ案内する。 その様子を楸瑛は苦笑して見守り、窓を閉めた。 「ちょっと多めに炭を貰ってこよう」 楸瑛はそう言い残すと音を立てずに室から出て行った。 絳攸と秀麗は二人きりになった府庫で雪の降る音を聞いていた。 音のない音だったけれども。 「・・・挑戦的な、顔をされていました」 秀麗はぽつりと言った。 「そう・・・か。怖いか?」 「怖い・・・というか。 なんだか遠いというか。 よく分かりません。 ただ、勝手に踏み込んではいけない事は分かります」 秀麗は見えない線引きをしっかり感じていた。 線の先に行くには本人の了承がいることも。 絳攸は半眼を伏せた。 秀麗の心遣いが好ましいと思った。 彼女はわきまえる部分を決して間違えない。 それが逆に口惜しくもあった。 これでは―――増長してしまう。 「いずれ・・・」 絳攸は火鉢を見ながら言った。 時折、炭が爆ぜて火花が飛ぶ。 「絳攸様?」 見上げる秀麗の視線を感じて絳攸は自嘲気味に笑った。 秀麗の頭をぽんぽんとなでて、言葉を継ぐ。 「いずれ・・・雪の話を聞いてくれないか」 今はまだ言えなかった。 楸瑛のように笑い飛ばす強さは絳攸にはない。 記憶と気持ちの整理がついていないのだ。 何かの弾みで腐れ縁には話す事があるかもしれない。 ただ、秀麗には。 秀麗には話したい、そう思った。 聞いてもらいたいと。 絳攸は秀麗の小さな手を見る。 少し血色が戻ってきたようだった。 そうすると今度は逆に水仕事で出来たアカギレが痛々しい。 「秀麗。 早く春が来るといいな」 秀麗は優しく微笑んだだけだった。 その表情に絳攸の心の底が疼く。 己の弱い部分を“話したい”と思う女性がいる。 それがどういう心情なのか・・・絳攸は気付いている。 でも、今は、まだ。 ・・・・絳攸はそう願った。 本来なら“その心情”を持ってはいけなくて、気付いてもいけなくて。 名前をつける事などあってはならないのだ。 主上に仕える以上絶対に。 ふわりふわりと舞い散る雪さえも糧にかえて。 根は春を待ち侘び深く太く。 芽を出さないよう季節をとどめるのは辛いばかりになっていた。 いっそ、切ってしまおうか。 了 20080831 ・単体で読めるようにしています(ハズ・・・)。 ちょっとだけ続きっぽくもしています。 順番的にはイチョウ→玉響の音→雪ひとひら。 季節感がない上に、何だかとっても暗くて。 これもどれも、絳攸様の腰抜けっぷりが・・・・・(溜息) |
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