14  願わくば


コウはゆっくりと足を進める。
少し前から片足の重心がおかしかった。
いくつも丸い穴があいた虫食いの葉が頭に浮かぶ。
恐らくコウの身体はそうなっているのだろう。
ポカリと消えた何箇所かの身体。それは徐々に・・・
「っ・・くっ」
足の感覚が崩れた。重心が完全に傾く。
受け身もとれずに地面にひっくり返る。
地面に這いつくばって・・・息をついた。
片足が持っていかれたようだった。

―――どこに?

コウは頭に浮かんだ疑問をすぐに打ち消した。
考えたくなかったのかもしれない。
コウは身体の力を抜いて大地に身を預けた。
ひんやりとして気持ちがいい。
「・・・ここで、終いか・・・俺は」
無意識にコウは声にだしていた。
どこか遠くで木々の葉が揺れる音がする。
その音をしばらく聞きながら・・・・コウはダンッと右拳を地面に叩きつけた。
「ふざけるなっ」
そう怒鳴って、顔を上げる。
李木は目前だった。
あそこまで行くのだ。
「こんなところで・・っ」
そう言って片腕を軸にズルズルと前に進む。
衣が泥で汚れていくのも構わずにコウは腹ばいで進む。
傍からはただ足掻いているようにしか映らなくても、それでいいとコウは思った。
この十年。
落ちる処まで落ちた。
泥にまみれる以上の屈辱を味わった。
情けない姿だって晒した。
挫折も敗北も。
そして。
(・・・黎深様・・・秀麗・・・)
手が李木に触れた。
並び立つ桜と比べると太幹だった。
コウは幹にしがみつくようにして身体を起こすと、もたれ掛かるように座り直した。
李木に背を預け細い桜を見上げる。
「主上・・・・」
思い浮かべるのは九割の苦い思い出に一割の。
今、切に思う。
主上の為にあった十年を。
その時。
カサリという音がした。
乾いた草を踏みつける音だった。
コウはゆっくりと首をめぐらす。
「秀麗。
 ・・・・綺麗だな」
コウはすぐ近くで立ち止まった秀麗を見て鮮やかに笑った。
その顔は泥で汚れていたけれど。
「お世辞はいりません」
秀麗は硬質な声で言った。
衣を着替えて化粧を施した少女にコウは首を振ってみせる。
「お世辞じゃない」
ちゃんと本音だった。
そして彼女は更に綺麗になるのだ。
秀麗は悩んで迷って成長する。
ひとつ壁を乗り越えれば格段に秀麗は変わった。
そして鮮烈なまでに記憶に残る女性に成長していく。
コウの目にはその姿が焼きついている。
「絳攸様」
秀麗はコウをそう呼んだ。
「コウだ。
 この世界に絳攸はいるだろう」
「知りません」
「秀麗」
「この世界、とか。
 未来、とか。
 そんな事知りたくありません」
激しく首を振る秀麗にコウは眉を寄せた。
「何をそんなに怒っている?」
今の秀麗は・・・未来の笑わなくなった秀麗を少し彷彿させる。
「怒ってますよっ」
「・・・・」
「私の事はほっといて下さい。
 そんな事はどうでもいいんです。
 それより!
 ・・・私、知ってるんです。
 絳攸様の目。
 死を迎える人の目」
茶器を割ってしまったあの室で。
秀麗はコウの目に見つけてしまったのだ。
茶朔洵と最後に会って別れた彼の目。
全く同じ色合いを。
「秀麗・・・っ」
その時コウの身体がズンッと沈んだ。
はずみでコウの衣の袷から何かが飛び出す。
秀麗はコウの状態に一瞬息を飲んだ。
かぶりを振って、秀麗は何もなかったように手を伸ばす。
コウが落とした物を拾い上げた。
佩玉だった。
佩帯する組紐がくるくると巻き付いている。
佩玉と組紐についた土埃を指先で掃って・・・・秀麗はずしんと心臓が重くなった。
「秀麗・・・
 それは」
「これを下さい」
コウはギョッと目を剥き、慌てて右手を差し出す。
「だ・・だだ駄目に決まっているだろうっ」
秀麗は軽く無視した。
「私、今、怒ってますから。
 絳攸様の言う事は聞きません」
それならば何故了解をとったのか。
「・・・・それをどうするつもりだ?」
「形見にします」
即答だった。
コウが息を飲む隙に言葉を続ける。
「絳攸様こそ。
 死ぬつもりの目で・・・・物に執着しなくてもいいでしょう」
コウはぽかんと口を開けて秀麗の目を見る。
うっすらと濡れた目の淵。悲しみと怒りをごちゃ混ぜにしたような目なのに、強くコウを絡めとる。

―――。

(・・・いやいやいや、駄目だろう。何をほだされてるんだ俺は)
ついうっかり、“あげる”と言いそうになりコウは首を振った。
「秀麗。
 それだけは本当に駄目なんだ」
文字通り災いしかもたらさないだろうから。
「出来ません」
「何故だ?」
秀麗はムスッとして答えた。
視線をコウから外して。
「怒ってるからです」
秀麗は何度もそう繰り返す。
コウは首を傾げた。怒って感情を爆発させたいのは、それこそコウの方だというのに。
この、どうにもならない状況に。
何に対して怒っているのか・・・・聞こうとしてコウは止めた。
聞いてしまったら、コウの方が困ってしまいそうな気がした。
秀麗は言っていなかったか?
“絳攸様は死ぬつもりの目をしている”と。
何も言わないコウに痺れを切らしたのは秀麗の方だった。
「怒ってるんです。自分自身の為に」
は?
とコウは思った。
全くもって予想外の言葉だった。
「秀麗?」
「・・・・怒るのを止めたら。
 泣きますよ?
 私。
 泣かないって決めたんです。
 泣かないために怒ってるんです。
 化粧だってしたんです。
 泣けないんですよっ」
コウはハッと目を見開く。
頭にチラついたのは美しく成長した女性。
彼女が笑わなくなったのは、何がきっかけだったか・・・。
いつも怒っているような態度をとるのは。


―――・・・秀麗


今なら、聞きたいと思った。
はるか未来の彼女に。
怒っている理由を。
心の片隅にわだかまって、それでも何もできずにダラダラと過ごしてきてしまった。
こんな悔やみを・・・・今更悔恨を・・・。
コウは土を握りしめる。
爪に土が入り込んでも構いはしなかった。
(・・・でき・・るか。
 今更後悔なんて出来るかっ!
 帰ってやる。何がなんでも帰ってアイツに聞いてやるっ)
欠けた手足・・。
この先が未来に繋がっていないと、誰が決めた?
万が一でも可能性は残っている。
コウは秀麗を仰ぎ見る。
その時。
ふっと優しい気配にコウは包まれた。
秀麗が眦に溜まりそうな涙を堪えて笑っていた。
秀麗は知っている。
強い思いは目に宿るのだ。
死も生も単純だからこそ強い。
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