17 真実


ぴょ〜ろろろりろ・・・・ぷぴょ
貴陽を見下ろす龍山。
とある墓の傍に腰を下ろして彼は笛を吹いていた。
雨に濡れて全身びちょびちょのぐちょぐちょ。
長い髪が端整な横顔に張り付いて鬱陶しそうに見える。
しかし本人は全く気にする様子はない。
一度、笛の音が止まった。
彼はチラリと墓を見て、また笛を口に寄せる。
誰より・・・それこそ仙洞令君より正確に事態を見通していたのは“龍蓮”ただ一人だった。
片手にも満たない情報から過去も未来も・・・確定した事実として“分かる”事が出来るからこその藍龍蓮。
縹家の異能すら凌ぐと云われる、その力。
「・・・・ままならぬ」
微かに呟いて、龍蓮は奇怪な笛音を紡ぎはじめる。
ぺ〜ぴょ〜・・・ぺょぅぴょぴゅ〜〜〜
人は・・・コレほどまでに奇抜な音が出せるのか、と不思議に思ってしまいそうな破壊音。
だが本当の不思議は雨の中響く“笛音”だったのだが。
笛は・・・湿気や水分に弱い楽器なのだから。
――少し、雨が弱まっただろうか。



それは場所のせいだったのかもしれない。
仙洞宮は強力な磁場の核。何百年と力(仙洞宮)を映してきた禁池の水面。
きらきらと輝く水の成分は光であり闇でもある。

それは人のせいだったのかもしれない。
妖を追い払い人々の安寧を強く願い叶えた蒼玄王の末裔。
絶えることが許されない血筋を持つ者。

それは想いのせいだったのかもしれない。
“過去がみたい”という願いに感化された無意識の願望。
―――――あの頃、彼女は笑っていた


それが事の始まり。



想い願い、叶える力が生まれたとき。
力は世界を歪ませた。
世界を構成する一部を欠けさせるほどの強力な力。
一瞬の後、力は“後悔”という色合いに変わり消えうせる。
世界を歪ませた力が失せた今、世界は全力で欠けた一部を引き寄せる。



上も下も右も左も闇の中。
当然のように現れたのは左腕だった。
母親の胎内・・・羊水の中でたゆたうように左腕はゆらゆらと。
ついで腹の一部がぽこりと現れた。
肩も足も・・・次々と。
各部位はくっつきそうになっては離れながらゆらゆらする。
部位が全部揃うのに時間はあまりかからなかった。
ゆらゆら。ゆらゆら・・・・ペヒョ。
・・・?
各部位は変な音を聞いた、と思った。
なんだ、ペヒョって。
勘違いだ・・・・ろう・・・・・・ポキョゥッ。
それは、まるで結婚した時に藍龍蓮が祝いの曲を即興で奏でたときの。

(藍・・龍蓮かっ)

瞬時。
部位は“部位”ではなくなった。
世界が全力で引き寄せ補った“一部”は完全に元に戻ったのだ。
引き寄せ続けていた力が、ふっと消える。
役目は終わったのだから。



――と。
“絳攸”はパンッという音を聞いた・・・と思った。
何かが弾ける音。
同時に自分に襲い掛かったのは水。
「ッガッッボホッ―――」
口から息が漏れていく。
(・・・な・・・ななな・・・な・・)
絳攸は水の中にいた。
はずみで飲んだ水が喉を圧迫する。・・・・肺が痛い。ぎゅぅっと焼け付くようだった。
何とか・・・しなくては。
痛みなど構っていられる状況ではなかった。
絳攸はむやみやたらに腕を振り回す。
がぼっと吐いた息は幾つもの気泡になって逃げていった。
闇の中。上か下かも分からない。
水の中で溺れている感覚すらなかった。ただただ、本能だったのだろう。
水をかいた。かいた、かいた。
銀色に煌く気泡を追って絳攸は、かき続けた。
だが・・・息が。
ひとかきすれば、空気がある。
ひとかきすれば、空気がきっとある。
思いつつ、かいて、かいて。
(・・もうっ・・・)
次の瞬間。
左腕が水ではないものを、つかんだ。



強い気配を感じたのは三人同時だった。
何があってもいいように身構えたのも。
三人の内、一人は文官であったにも関わらず、息を詰めて辺りを伺う様は場馴れしていた。
仙洞宮禁池のそばで楸瑛は静蘭を見る。
静蘭は燕青を見た。
燕青は眉を寄せて聴覚を研ぎ澄ます。
コポリ。
水面に気泡がたった。
三人の視線は一斉に禁池に注がれる。
次いでゴフリと大きい気泡が立つ。
黒光りする水面は静かに、でも確実に波立った。
「こう・・ゆうっ」
楸瑛は震える声で名を呼んだ。
違っているかもしれない、でも・・・
水面はどんどん激しく波打つ。
次第に三人の目前で水が盛り上がった。
白いナニカがちょっと水面から顔を出して・・・・すうっと沈んでいく。
次の瞬間。
楸瑛は腰の剣を外した。
「えっ。
 おい。ちょ・・」
燕青が目を丸くする。
楸瑛はすでに帯を解きにかかっていた。
その手を静蘭が掴む。
「何やってるっ」
「絳攸がいる」
楸瑛は怒鳴った。
掴まれた手をひったくるように取り戻す。
静蘭は楸瑛の首元の衣を絞めるように掴むと間近で顔を見合わせた。
「正気かっ。
 人じゃないかも知れなっ・・」
「貴陽だろう。
 ここは」
静蘭の声を遮って楸瑛は言った。
一拍おいてニヤッと笑うと静蘭を突き放す。
「羽林軍の所属年数は私の方が長い。
 冬季恒例極寒寒中水泳経験者を舐めるなよ」
言い終えるや、ドボンッと盛大な水飛沫が上がった。
静蘭はちょっとの間、口をあけて水面を見ていた。
慌てて口を閉じたのは、くっくっくっ、という笑い声のせい。
ぎろり、と静蘭は睨み付ける。
もう遅いけれど。
「お前が必死な顔するなんてな。
 姫さんと陛下以外じゃ・・・滅多に見れねぇ」
「五月蝿い。黙れ」
「あ――。はいはい。
 ・・・あれは、手だったぞ」
確かに人の。
燕青は笑いを噛み殺して静蘭に手を振る。
行ってこい、と。
少なくとも医官の手配はしなければ。
それに。
静蘭は小さく舌打ちをする。
一度水面を振り返り、ふいっと背を向けると駆け出した。
燕青は静蘭の背中を暫く見つめて。
「素直じゃねーなぁ」
と、呟いた。



その室は異常に暑くなっていた。
幾つも並べられた火鉢。
あちらこちらで炭がぱちぱち爆ぜる音がする。
温石をぽいぽい入れた布団に絳攸は寝かされていた。
楸瑛は青白い額にそっと指を伸ばす。
お互いの体温は、あまり変わらない。
楸瑛は水中に沈んでいく絳攸を手繰り寄せると、燕青と一緒に引き上げた。
水を吐き出させて息を取り戻した絳攸は、うっすらと瞼を持ち上げたのだ。
とても重たそうに。
どろり、とした覇気のない目が楸瑛を見て。
『・・・りゅ・・れ・』
それきり。
動かなくなった。
一方、楸瑛もぎょっと目を見開いて動けなくなった。
何だって?
問い質そうにも絳攸はウンともスンとも言わない。
楸瑛は長い長い溜息をつく。
どっっっと疲れが身体に押し寄せて楸瑛は顔をしかめたのだった。
「絳攸」
臥台で眠る絳攸に楸瑛はそっと呼びかけた。
眠りは深くなさそうだった。
朝までには起きるだろう。
「迷子の君を連れ戻すのは私の役目だって言ったよね」
それは遠い約束。
約束は身体に染み付きすぎて違和感すらない。
楸瑛にとっては、息をするように当たり前の事。
いつの間にやら。
「君ねぇ。
 連れ戻せない場所にまで行くのはどうかと思うよ」
自分では“探せない”という憤り。
憤怒を抑えるのに楸瑛は苦労したのだ。
まったく何て損な役回り、と楸瑛は頭を抱えるのだが止めたいとは思わなかった。
楸瑛は絳攸を迎えにいく。
主上の両脇に二人で控えるために。
「おかえり、絳攸」
額に触れていた指を離して楸瑛は臥台を離れた。
室の空気が少し薄かった。
続き室の半蔀を少し開けた方がいいだろう。
 


暖かい、というより暑くて息苦しい。
室に入った秀麗は息をついた。
すぐに目に映る臥台。
そして。
待ち焦がれた人が寝ていた。
そっと。そっと静かに近づく。
恐る恐る手を伸ばして・・・・触れたのは絳攸の左腕だった。
ある。ちゃんと其処に左腕はあった。
一瞬浮かんだのは龍蓮の横顔。
龍蓮は笑ったようだった。
秀麗は息を吸い込む。
抱え込みすぎた心が胸を一杯にする。
10年だ。10年待ったのだ。目の前で消えた人に、今、会えた。
何て言うつもりだったのか・・・・考えていたのに言葉がでなかった。
良かった?心配した?それとも、ごめんなさい?
ああ。もう、いやだ。
こんな思いは。
こんな思いは、もう抱えたくない。
だから。
秀麗はそっと袷に手をいれた。
取り出したのは小刀。
すらりと刀を抜いて鞘を落とす。
からんと寂しげな音が響いた。
一点の曇りもなく磨かれた銀色の刃。
そこに映る秀麗の顔はぐちゃぐちゃだった。
泣かない、と決めたはずなのに。
秀麗は小刀を構えると臥台に乗り上げた。
絳攸の脇に手をついて、狙いは首筋の太い血管。
息を詰めて腹に力をこめて秀麗は振りかぶる。

――ドスリ。

重い音が室に響いた。
「いただけないね」
後ろから声がした。
よく聞き知った声だった。
「秀麗殿。
 お腹の子の父親殺しになるつもりかな?
 大切な子だろう?
 君にとっても絳攸にとっても。
 絳攸がよくそう言っていた」
「何故って聞かないんですか」
秀麗の目に映るのは、狙いが反れた小刀。
絳攸の首筋すれすれで臥台に突き刺さった銀色の刃。
楽になれると思ったのに。
「何故って聞いて欲しいみたいだね。
 なら、聞いてあげようか?」
秀麗は振り返らなかった。
彼・・・楸瑛の言葉は感情の起伏がなく冷たい。
振り返らなくても同じような表情をしているのだろう。
「もう・・・
 嫌なんです。
 いなくなる日を覚悟するのも、戻ってくるのを待つのも」
いなくなる日を・・・秀麗はよく数えたものだった。
時間がない、と思った。帰ってくるのかも分からなかった人。
だから彼の人生を奪った。自分自身の自己満足の為に。
絳攸の本当の姫君の居場所すら奪って・・・絳攸と一緒にいた10年は謝りきれるものではないと知っている。
それなのに秀麗は更に望んでしまうのだ。
(もう・・どこにもいかないで)
「確かに殺してしまえば、どこにも行けないね。
 いなくならないし、戻りを待つ事もない」
「疲れたん・・・・です。
 もう、待てない」
しゃくりあげる秀麗を尻目に楸瑛は臥台に近寄った。
途中で落ちている鞘を拾い上げ、絳攸の首元に刺さった小刀を抜く。
楸瑛は、つと目を細めた。
かちりと小刀を鞘に収めて手首を返す。
秀麗に小刀を差し出した。
どうぞ、と。
秀麗は震える手を伸ばす。
ずしり、と硬い重みが手の中に納まり・・・。
「秀麗殿を待ち続けた主上には聞かせられない言葉だね。
 しかも貴方は、結局絳攸を選んだ」
秀麗ははっと顔を上げた。
息が詰まる。
楸瑛が何を言いたいのか・・・・。
楸瑛は絳攸に視線を落とし溜息をついた。
(もう少し、休ませてあげたかったけどっ)
ドカッという音が響く。
楸瑛は力の限り臥台を蹴飛ばした。
はずみで絳攸の身体もビクビクビクッと震え上がる。
身体を半起きにして絳攸は目を丸くしていた。
長い睫毛がパチパチパチパチする。
一体何事だ、と飛び起きた絳攸は楸瑛と秀麗を見比べた。
(まだ・・・秀麗は・・・)
絳攸は素直に感情を口にした。
「・・・・笑ってくれ、秀麗」
ぷちっと音が確かにした。
秀麗のこめかみに筋が立って。

パッチ――――――ン

派手な音が室に響いた。


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