少し前の事だ。秀麗は絳攸と一緒に食事をした事があった。
海鮮料理が食べたいと言って絳攸は魚介類を持参して邵可邸を訪れた時だった。
夕食の後、絳攸は邵可と二人庭院で酒を酌み交わしていた。とても長い時間。
彼は然程お酒が強くない。案の定、帰る頃には大分足元が怪しくなっていた。
「絳攸様?」
不意に絳攸は立ち止まった。彼にしては珍しく、まっすぐに玄関に向かっている途中だった。秀麗は心配になって絳攸を覗き込む。
「・・・月が綺麗だな」
絳攸は秀麗の肩にトンと手を掛けると笑った。秀麗は一度闇夜を見上げて絳攸に向き直る。彼は何をみて綺麗だと思ったのか・・・。
「絳攸様?」
絳攸はふるりと首を振った。どうやら大丈夫と言っているようだが。
「俺には自分より大切な方がいる」
唐突に絳攸は言った。昊を見上げたままで。
秀麗は絳攸の恐ろしい程に穏やかな顔を見上げる。
そして、息をのんだ。

 秀麗は石廊のかどを曲がる。廊下のかどを曲がる度に絳攸の姿を期待し、落胆した。
あの晩、秀麗は絳攸を見つめたまま動けなかった。絳攸は秀麗の肩を押しやると玄関にむかって歩きだした。見送りは此処まででいい、と。
秀麗は何も言えずに絳攸の背中を見送った。彼が流した唯一筋の涙が・・・あまりにも儚くて。
秀麗にとって『泣く』という行為は一種の発散だった。
しかし。
叫ぶでも喚くでもない。ましてや嗚咽を堪える様子もなかった。ただ、零れ落ちた。そんな様子だった。張り詰めていた糸がふっと切れてしまったような・・・
もしかしたら本人ですら気づいていないかもしれない。
秀麗が知る限り、絳攸はあの時からおかしかった。

 ドボン。
そんな音を秀麗は聞いた。なんだろうと思い首をめぐらす。
「・・・・あ。」
秀麗は思わず声をこぼした。探し人発見。
いや、だが。しかし・・・。
「・・・何をやってるんですか?
 絳攸様」
秀麗は庭院の池に嵌っている絳攸に声をかける。両足見事に池に落ちて微動だにしない。幸いだったのは、深みに嵌っていない事だろうか。
絳攸も暫く放心している様子だった。秀麗の声で自分の惨状に気づいた感がある。
「絳攸様」
「あ・・・あぁ」
気力のない声が絳攸の口からもれる。秀麗は絳攸の傍に歩みよった。足元に巾着を置いて両手を差し出す。
「とりあえず。
お持ちの書翰を預かりますから」
あとは御自分で上がってきてください、と溜息をつく。
絳攸は言われるがままに書翰を秀麗に預けると音を立てて水から這い出た。膝まで濡れた衣。裾を絞ると盛大に水しぶきが蹴散飛ぶ。
秀麗が手布を差し出すと絳攸は首を横に振った。流石に手布一枚ではどうしようもない有様だ。
「・・・・近いと思ったんだがな」
絳攸はぼそりと言った。靴を脱いで逆さにする。
秀麗は辺りを見回した。
「・・・・吏部が、ですか?」
秀麗の記憶が正しければ池の向こうの殿は吏部だった気がする。
回廊で迂回するより、確かに近いが。
「方向性はあっているようですが・・・どちらかというと、あの世に近い気がします。入水自殺か、と」
内朝外朝ともに庭院に整備された池。大小様々だが水花を愉しむべく贅を凝らして作られた池は深さも十分で。
「書翰を持ってか?」
「最近の絳攸様は覇気がありませんので」
絳攸はびくりと身体を震わせた。
「容赦がないな」
「これでも絳攸様の弟子ですよ?」
晴れやかに笑って秀麗は絳攸を見上げる。
ふいに絳攸は思い出す。
―百年先を見通したときに何ができるのか、そう言ったそうだよ。もう何年も前。茶州にいたときに―
当時の歳若い二人の州牧が事業を提案し起動に乗せる為に奔走していたのを絳攸は知っている。
だが、彼女が茶州州官にそう激を飛ばしたのは知らなかった。
(その考え方は―)
「・・・弟子、か」
「絳攸様?」
「俺自身、一人前ではないのに」
ぽつりと絳攸は言葉をこぼす。
途を選んだが為に悔いを作った今の己には、なんて相応しくない言葉なのだろう。
「・・・絳攸様。何を悩んでいるのかは存じません。お訪ねもしません。
ですが。
絳攸様がどうあれ、私は絳攸様の弟子のつもり満々ですから」
「秀麗」
「それは譲れませんから」
秀麗は意思を宿した強い視線で見上げる。迷いのない目だと絳攸は思った。

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