絳攸は足元から寒さを感じてぶるりと震える。
「大丈夫ですか?」
秀麗の心配そうな顔に絳攸は苦笑する。
「ああ。吏部に帰れば着替えがあるしな」
吏部では『徹夜で数泊』は当たり前。自然と生活用品が増えてしまう。
絳攸は濡れたままの靴を履いて・・・あっと思い出す。
「すまない。忘れていた。書翰を・・・・」
秀麗に渡したままの書翰に手を伸ばす。秀麗は首を横に振った。
「お持ちします」
「それは不味い。
 この有様だし、気持ちは嬉しいのだが・・・。一応それは吏部秘なんだ。うっかりしていたが」
秀麗はぎょっとして手の中の書翰を見る。
うっかりしすぎである。
「そういう事でしたら。でも吏部まではお供させて下さいね。お渡しするものがあるんです」
秀麗は手の中の書翰を絳攸に返すと、地面に置いていた巾着を拾う。
「ねぇ絳攸様。
前に私、悩みすぎてカラクリ人形になってしまった事があるんです。」
「は・・・カラクリ人形?」
唐突な話題転換に絳攸は秀麗を見下ろした。
秀麗は絳攸を見上げて笑う。二人は吏部に歩き出した。
「そうです。自分の選択が間違っていないと頭で理解して、でも理性がついていけなくて。考えて、考えすぎて逆に呆然となっていて。只仕事をこなすだけのカラクリ人形になっていました」
秀麗は思い出す。死ぬ直前まで笑っていた人。
絳攸は何も言わなかった。ぴちゃんぴちゃんと絳攸の足音だけが響く。
「でも、周りにいた人は優しくて。ちゃんと人間に戻してくれた」
絳攸は書翰を握り締めた。彼女の言いたい事が・・・・なんとなく伝わってくる。
「秀麗、俺の事を知って・・・」
絳攸は足を止める。数歩先で立ち止まった秀麗は振り返って首を横に振った。
「絳攸様の様子がおかしい事は気づいていましたが、何があったのかは知りません。でも、似ていると思ったんです」
「・・・秀麗」
「いや、あの・・・その。私なんかの悩みと絳攸様の悩みとは比べるべきもないんですが・・・
 えーと」
何を言い出してしまったんだろう、そんな様子で秀麗は真っ赤になりながら言葉尻を濁す。
絳攸は苦笑する。
これでは、どちらが師で弟子なんだか。
「すまない。・・・その心配させて」
「心配くらい、させて下さい」
顔を軽く背けて秀麗は細い声で言った。ぎゅっと巾着を握りしめる。絳攸は秀麗の手が赤くなっているのを見てとった。書翰を片手に抱えなおす。空いた手を秀麗に伸ばした。
「重たそうだ」
巾着をよこせ、と。
秀麗は苦笑した。
「もう少しですから」
「大丈夫か?
でも一体それは」
絳攸と秀麗は歩き出す。
ぴちゃんぴちゃんと愉快な音がついてくる。
「父様からです。李だそうですよ」
この季節に李。一体どうしたのかと秀麗は邵可に聞いたのだが、邵可は笑ったきりで答えてはくれなかった。
「・・・李」
「はい。かなり酸っぱそうですけ・・・絳攸様?」
目を見開いて驚愕を顕にした絳攸に秀麗はそっと手を伸ばす。上腕に手を掛けた。歩き方がぎこちないと思ったら手と足が一緒になっている。
絳攸は秀麗の手を掴んだ。
暖かい。
そして、邵可の言葉を聞いた気がした。
―貴方の名前の意味を
と。
穏やかな笑顔と共に。
絳攸の名は黎深がつけた絆。絆の意味は何者にも―黎深にすら囚われず、自分の意思で自由に流れよ、と。
黎深様。邵可様。そして。
絳攸は秀麗の暖かい指先を握りしめる。搾り出すように言葉を紡ぐ。
「・・・秀麗。
 秀麗、俺の周りも優しい人ばかりだ」
絳攸は目頭が熱くなるのを感じた。何かが胸いっぱいに広がって溢れそうになる。留めておくのも困難で、もういいか、と思った。
「絳攸様っ」
パタパタと涙を流し始めた絳攸に秀麗は慌てた。とりあえず手布を出そうとして・・・止める。代わりに秀麗は絳攸の大きな手を強く握り返した。
とても、強く。

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