7・秀麗と絳攸


秀麗は臥室の椅子にへたりこんでいた。
久しぶりの父茶。
記憶と寸分違わず、いやそれ以上にマズイところが凄いというか・・・。
どっと疲れが出たのか、秀麗は臥台に行くのも億劫だった。
ふと、卓子の上を見れば小さな布袋。
秀麗は思わず顔を綻ばせる。
手を伸ばして袋の中から塗り薬を取り出した。
ゆっくりと指先に塗っていく。


茶州に戻る直前。
秀麗は絳攸に呼び止められた。
これを、と差し出されたのは使いかけの塗り薬。
確かに秀麗の指先は荒れていた、それでも。
「お気持ちは嬉しいのですが、使う刻はなさそうですから」
茶州に戻れば寝る間もないくらいに忙しくなるだろう。
いや。
今、すでに。
ましてや生死をかけに戻るのだ。
そんな時に指先など構っていられるはずがない。
「使わなくていい」
ぼそり、と絳攸は言った。
「絳攸様?」
絳攸はすっと指を伸ばすと秀麗の指先にちょんと触れる。
秀麗は小首をかしげた。
一体どういう意味なのか・・・。
「痛むか?」
秀麗の赤い指先。
少し血が滲んでいた。
秀麗は首を振る。
「・・・いいえ」
「だろうな。
 目の前の事に一杯で、この程度の痛みは気にならないんだろう」
秀麗は、はっとした。
確かに目の前の事に一杯一杯だ。
秀麗は顎をひいて絳攸を見上る。
「傍から分かるほど・・・動転していますか?」
秀麗は肝が冷える思いで聞いた。
動転して気づかないうちにまずい決裁でもしただろうか・・・?
仮とはいえ茶州最高官。
鬼才といわれる副官が常に傍にいるとは限らなかった。
(愁舜さん・・・特に何も言ってなかったけど・・・)
絳攸は秀麗の思考を正確に読み取って微苦笑した。
「いつもより・・・感情的になっているようだが動転しているようには見えん。
 お前も鄭補佐も最高の手を打っている。
 流石を通り越して呆れるほどに」
「では・・・・?」
絳攸はもう一度秀麗の指先に触れる。
「“この程度の痛み”を感じたら塗り薬を使ってやってくれないか?」
「・・・・」
「その頃には茶州の情勢も落ち着き始めているはずだ」
「・・・っ」
秀麗は息を飲んだ。
「茶州の情勢は長期戦にはならないだろう。
 恐らく短期決戦。
 情勢なんて、波のようなものだ。
 緩やかな波ほど怖い」
「・・・急な高波は引くのも早い・・・?」
絳攸は微笑んだ。
まったく頭の回転の速い弟子を持ったものだ、と。
「更に言うなら、打つ手がよければ後々の支障が少ない」
「絳攸様」
「頑張れ、とは言わないぞ。
 指先の痛みが一日も早く戻る事を祈ってはやるがな」
秀麗は丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます」
絳攸は秀麗の手を取ると塗り薬を握りこませる。
「使いかけですまない。
 本当は新しいものを用意する予定だったんだが・・・」
心からすまなそうにしている絳攸に秀麗はふと疑問が浮かんだ。
むうっと顔をしかめる。
少しだけ躊躇って、しどろもどろに口に乗せた。
「あのぅ・・・絳攸様?
 ・・やっぱり、指先の綺麗な女性の方が好きですか?」
絳攸は軽く目を見開いた。
そういう意味で薬を渡した訳ではないし秀麗も分かっている様子。
なのに改めて聞かれる意味がよく分からない。
「いや。 別に。
 気にした事はない。
 ただ、お前の指は痛そうだと思ったんだが?」
きょとんとする絳攸に秀麗は笑った。
あはははは、と乾いた声が響く。
「そ・・そうですか!
 よかった・・じゃなくて、ありがとうございますっ」
秀麗はぺこりと頭を下げた。
「行ってきます。
 絳攸様」
それは。
場違いな程、晴れやかな声だった。

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