16 秀麗と燕青。そして原因は。


秀麗はビクリと震えると目を開けた。
宮城の御史の一室だった。
秀麗はもう一度ふるりと震える。
夢・・・だと分かっていたのに背筋が凍った。
龍蓮が持っていたのは・・・間違いなく絳攸の腕。
はじめに欠けた、彼の左腕。
額の汗が気持ち悪い。
秀麗は袖元で拭ってしまいたいのを堪えて手布を探した。
その時。
「あ・・・ら。
 ありがとう、燕青」
ほっと表情を和ませて秀麗は言った。
燕青が差し出した手布を借りて額と、首筋を拭う。
「どういたしまして。
 って、大丈夫か?姫さん」
「・・・何が?
 極めて順調だと思うけど」
燕青は頭をがしがしと掻くと、んー・・と唸った。
「俺はだな。
 官吏の姫さんが大好きだ」
燕青はよくそう言う。
俺を丸ごと全部持ってけよ、と。
官吏の姫さんになら、と。
「だから。
 順調でしょ。
 今回は清雅も動いているし。あっちが派手に動いている分、私たちは動きやすいもの」
「・・・・姫さんにしちゃ、往生際が悪りぃ。
 俺は官吏じゃない姫さんもちゃんと心配だからな。
 なぁ。聞かせてくんない?
 李次官さんの事」
秀麗は苦笑いをした。
燕青相手にのらりくらりとかわせきれるはずがない事は重々承知していた。
外は又、雨が降りだしたようだった。
しとしと・・・音が室に満ちる。
秀麗は棚の引き出しから小箱を取り出す。
箱を開け中身を取り出すと燕青は目を見開いた。
「すげぇな」
思わずこぼれた声は本音だろう。
秀麗とて初めて見た時には驚いたものだった。
この世の贅を凝らして作られた紅い櫛。
絳攸は浪費家ではない。
その彼が注文した櫛。
「絳攸様の奥方に渡す約束をしたの」
燕青は眉をしかめたようだった。
「それって・・・・」
「10年前。突如現れて消えたのよ。
 未来から来た、と絳攸様はおっしゃった」
「え・・・・と?」
首を傾げる燕青に秀麗はふふっと笑った。
話の内容についてこれなくてもいい、というふうに秀麗は続ける。
「その時、絳攸様は奥方のお名前をおっしゃらなかった。
 私も聞かなかったわ」
燕青は妙な顔をしていた。
「・・・。
 ・・・・・・」
「恐らく絳攸様は、10年未来・・・“絳攸様がいた世界”の情報を故意的に漏らさないようにされていた。
 でも。
 気づいてしまったの。
 彼の持ち物とか・・・ね」
「姫さん」
「あの時の絳攸様には、どこかの姫君がいらっしゃった。
 この櫛は、その姫君のもの」
燕青はパチリと目を見開いた。
「でも。
 その姫君の・・・奥方の居場所を、私が奪ったの
 未来は変わるってあの人が言ったから」
秀麗は乾いた笑みをこぼした。
疲れきった、という方が正しいかもしれない。
10年秀麗が抱えた約束と後ろめたさ。
「帰ってこなくても・・・・いいわ」
ぼそり、と秀麗は言った。
帰ってこなくてもいい。
絳攸から奪った10年を謝れないなら。
秀麗の元に腕が一本帰ってくるぐらいなら。
待っているのは彼の身体じゃなくて、もっと内側のもの。
燕青はそっと目を伏せる。
(涙流しながら・・・・言う事じゃないだろ)
「私には、この子がいるもの」
そう言って秀麗は自分の腹をさする。
両手で抱えられるほどに大きく膨らんだお腹。
(絳攸様は私にも、遺してくれた・・・・)
彼の姫君だけでなく、秀麗にも授けてくれたのだ。
だから、もういい。
秀麗はそう思ってしまう。・・・いや、そう思いこみたいのかもしれない。
燕青は秀麗の小さな頭にそっと手を置いた。
「雨・・・・・降ってるな」
秀麗はこくりと頷いた。
燕青の大きな手が暖かい。
絳攸とも違う、ごつごつした大きな手。
雨はしとしと、と降ったり止んだりを繰り返している。
雪に変わる事もなく・・・・。
この季節には、少しおかしい天候だった。
「えー・・・っと。
 こういうのを涙雨って言うんだっけか?」
秀麗はフルフルと首を横に振った。
「涙雨って少し降ってすぐに止む雨の事よ」
まるで零れるように落ちる雨。
降ったり止んだりを繰り返す雨ではなかったはずだ。
「あ。
 そうなんだ。
 しくしくしくしく泣いてる雨の事なのかと思ってたぜ。
 そっか。
 ガッと泣いて、泣き疲れたらパッと笑顔になるような。
 そんな雨の事なのか」
・・・なんだか・・・あっているんだか、微妙にずれているんだか・・・秀麗は、ん?と思ったが訂正はしなかった。
言葉が持つ意味を深く考えたくなかったからかもしれない。
涙雨とは、人が死んだ時に降る雨の事もさすはずだ。
「・・・そうね。
 そんな感じよ。
 あなたにしては・・めずらしい事いうのね」
「だってさ。
 泣いてるんじゃないかなーなんて」
秀麗は目を閉じて、そっと目元を拭った。
「誰が?」
「李次官さん」
・・・・絳攸様が?
「そ。
 一人きり、孤軍奮闘で10年前の若人に“頑張れ”って虚勢張りまくって、内心ココに帰れるか分からなくて不安でビクビクしまくってる李次官さんの代わりに、泣いて(雨降って)るんじゃないかなぁ・・・・なんて思ってたわけ。
 そんで。
 涙雨だぞーって」
意味違ってたみたいだけど、と燕青は朗らかに笑った。
「・・・・」
「あ。なんか俺、今かっこよくね?
 今なら詩とか歌とか、ちっとは分かるかも。
 ってか、あの人の涙雨ならしとしと、しくしくって感じじゃないか」
秀麗はその様子が目に浮かんで、小さく吹き出した。
あの人なら、ゴロゴロ・・ピカッ・・ザーッが妥当だろう。
燕青は安心したように口角を上げた。
(よし。姫さんの涙も止まったな)
「詩や歌が分かる燕青なんて、燕青じゃない・・・」
「はは。
 俺もそう思うぜ。
 なぁ。姫さん。
 俺の経験って奴からいくと、だ。
 人間ってそう簡単に変われるもんじゃないぞ」
「燕青?」
「未来って奴は変わるのかもしんないけどさ。
 でもなぁ。
 未来を変える“人間”って奴は、そうそうは・・・無理だ」
秀麗は燕青を見上げた。
頭に置かれていた燕青の手を押し上げて。
秀麗のぼろぼろに赤い目が、自信満々に笑う燕青を捉える。
「賭けてもいい。
 李次官さんが、その櫛を贈りたいと思ったのは・・・きっと姫さんだけだ。
 他の姫君なんてありえねーよ」
「・・・・燕青」
それは心が躍る言葉だった。
信じるには勇気がいる言葉だった。
「どうして・・・・根拠は?」
燕青はぽりぽりと頬を掻いた。
彼の目元がうっすら赤いのはきっと気のせいじゃない。
「んー。
 勘?」
燕青はちらりと視線を櫛に落として・・・・にかっと笑った。
きっと外れてはいまい。
「なぁ姫さん。
 李次官さんが帰ってきたら、さ。
 一つ約束してくんない?」
「・・・私、約束はこりごりなのよ」
「な。
 お願い、このとおり」
燕青はパンっと両手を合わせると言った。
「怒っても殴ってもいい。
 姫さんの胸のうち、ずばーんっと言いきったらさ。
 最後は抱きしめてやって?
 よく戻ってきたって。 
 男ってそれだけで涙出るくらい安心する生き物だからさ」
秀麗は答えなかった。
ただ燕青は殊の外優しく、秀麗を見つめていた。

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