燕青は御史室を後にすると絳攸が消えたという場所に向かった。
しとしと降る雨の中、傘もささずに。
またたく間に衣服が体に張り付いて歩き辛くなった。
前髪の雫をぴょんと指で弾いてどんより雲を見上げる。
基本的に燕青は秀麗と李次官の事に触れる気はなかった。
燕青にとって大事なのは“官吏である姫さん”なのだ。
それ以上は・・・燕青のもっとずっと深いところに封印して・・・長い刻が立つ。
その燕青が“らしく”なく彼女の私事に触れたのは。
「ほんと。
 らしくねーよなぁ」
燕青は盛大な溜息をついた。
昊にむかって。
ここ一年ばかり、秀麗は官吏として冴えに冴え渡った手腕を発揮していた。
傍からみれば。
燕青は秀麗との付き合いが長い。長過ぎた。
恐らく官吏の彼女と一番刻を過ごしたのは燕青だっただろう。
だから気づいた。もともと勘の良い男はいらぬ事まで深々と気づいてしまったのだ。
秀麗は、何かを引き換えにして仕事に打ち込んでいる、と。
能吏として冴え渡る手腕を繰り出せば繰り出すほど彼女の内側はボロボロだった。
「怒った振りなんか似合わないっつうの」
秀麗の夫であり上官でもある絳攸に対する態度。
燕青は、何度彼女の夫の元に殴りこんでやろうと思ったか。
「殴っとけばよかった・・・かな。
 あの人、殴ったら飛んでっちゃいそうなんだよなー」
燕青はぽりぽりと頬を掻いた。
けれども。
あの櫛を見たら、なんかどうでもよく綺麗に霧散した、もやもやしたものが。
だから、妙な事を口走ったのだろう。
きっと泣いてるから・・・抱きしめてやって、なんて。
「結局、馬に蹴られろって事なんだな。俺は」
あの櫛。櫛の紅は・・・秀麗そのもの。
他の姫君のものであるはずがない。
刻を超えてまでも、絳攸は形(櫛)にした想いを秀麗に渡した。
櫛に込めたのは“アイシテル”あたりだろうか。
そんなもの、きっと秀麗でなければ渡さなかった・・・・いや渡せないだろう。
絳攸の正確を考えれば尚更だ。
“頼まれ事をして欲しい”なんて嘘まで吐いて。
絳攸にしてみれば、妻になった秀麗に贈るのか、妻になる前の秀麗に贈るのか、その違いぐらいしかなかったんじゃないかと燕青は思う。
(あの方向音痴さんは、何度迷っても姫さんを選ぶのか)
あーあ。と思った。
本当に、あーあ、と。
憎たらしげな表情で。
冷たい雨の中燕青は歩く。
身体が冷えきっていた。
脳ミソまでカチコチに凍ってしまえばいいのに、と燕青は思ったものだった。

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