その室は異常に暑くなっていた。 幾つも並べられた火鉢。 あちらこちらで炭がぱちぱち爆ぜる音がする。 温石をぽいぽい入れた布団に絳攸は寝かされていた。 楸瑛は青白い額にそっと指を伸ばす。 お互いの体温は、あまり変わらない。 楸瑛は水中に沈んでいく絳攸を手繰り寄せると、燕青と一緒に引き上げた。 水を吐き出させて息を取り戻した絳攸は、うっすらと瞼を持ち上げたのだ。 とても重たそうに。 どろり、とした覇気のない目が楸瑛を見て。 『・・・りゅ・・れ・』 それきり。 動かなくなった。 一方、楸瑛もぎょっと目を見開いて動けなくなった。 何だって? 問い質そうにも絳攸はウンともスンとも言わない。 楸瑛は長い長い溜息をつく。 どっっっと疲れが身体に押し寄せて楸瑛は顔をしかめたのだった。 「絳攸」 臥台で眠る絳攸に楸瑛はそっと呼びかけた。 眠りは深くなさそうだった。 朝までには起きるだろう。 「迷子の君を連れ戻すのは私の役目だって言ったよね」 それは遠い約束。 約束は身体に染み付きすぎて違和感すらない。 楸瑛にとっては、息をするように当たり前の事。 いつの間にやら。 「君ねぇ。 連れ戻せない場所にまで行くのはどうかと思うよ」 自分では“探せない”という憤り。 憤怒を抑えるのに楸瑛は苦労したのだ。 まったく何て損な役回り、と楸瑛は頭を抱えるのだが止めたいとは思わなかった。 楸瑛は絳攸を迎えにいく。 主上の両脇に二人で控えるために。 「おかえり、絳攸」 額に触れていた指を離して楸瑛は臥台を離れた。 室の空気が少し薄かった。 続き室の半蔀を少し開けた方がいいだろう。 暖かい、というより暑くて息苦しい。 室に入った秀麗は息をついた。 すぐに目に映る臥台。 そして。 待ち焦がれた人が寝ていた。 そっと。そっと静かに近づく。 恐る恐る手を伸ばして・・・・触れたのは絳攸の左腕だった。 ある。ちゃんと其処に左腕はあった。 一瞬浮かんだのは龍蓮の横顔。 龍蓮は笑ったようだった。 秀麗は息を吸い込む。 抱え込みすぎた心が胸を一杯にする。 10年だ。10年待ったのだ。目の前で消えた人に、今、会えた。 何て言うつもりだったのか・・・・考えていたのに言葉がでなかった。 良かった?心配した?それとも、ごめんなさい? ああ。もう、いやだ。 こんな思いは。 こんな思いは、もう抱えたくない。 だから。 秀麗はそっと袷に手をいれた。 取り出したのは小刀。 すらりと刀を抜いて鞘を落とす。 からんと寂しげな音が響いた。 一点の曇りもなく磨かれた銀色の刃。 そこに映る秀麗の顔はぐちゃぐちゃだった。 泣かない、と決めたはずなのに。 秀麗は小刀を構えると臥台に乗り上げた。 絳攸の脇に手をついて、狙いは首筋の太い血管。 息を詰めて腹に力をこめて秀麗は振りかぶる。 ――ドスリ。 重い音が室に響いた。 「いただけないね」 後ろから声がした。 よく聞き知った声だった。 「秀麗殿。 お腹の子の父親殺しになるつもりかな? 大切な子だろう? 君にとっても絳攸にとっても。 絳攸がよくそう言っていた」 「何故って聞かないんですか」 秀麗の目に映るのは、狙いが反れた小刀。 絳攸の首筋すれすれで臥台に突き刺さった銀色の刃。 楽になれると思ったのに。 「何故って聞いて欲しいみたいだね。 なら、聞いてあげようか?」 秀麗は振り返らなかった。 彼・・・楸瑛の言葉は感情の起伏がなく冷たい。 振り返らなくても同じような表情をしているのだろう。 「もう・・・ 嫌なんです。 いなくなる日を覚悟するのも、戻ってくるのを待つのも」 いなくなる日を・・・秀麗はよく数えたものだった。 時間がない、と思った。帰ってくるのかも分からなかった人。 だから彼の人生を奪った。自分自身の自己満足の為に。 絳攸の本当の姫君の居場所すら奪って・・・絳攸と一緒にいた10年は謝りきれるものではないと知っている。 それなのに秀麗は更に望んでしまうのだ。 (もう・・どこにもいかないで) 「確かに殺してしまえば、どこにも行けないね。 いなくならないし、戻りを待つ事もない」 「疲れたん・・・・です。 もう、待てない」 しゃくりあげる秀麗を尻目に楸瑛は臥台に近寄った。 途中で落ちている鞘を拾い上げ、絳攸の首元に刺さった小刀を抜く。 楸瑛は、つと目を細めた。 かちりと小刀を鞘に収めて手首を返す。 秀麗に小刀を差し出した。 どうぞ、と。 秀麗は震える手を伸ばす。 ずしり、と硬い重みが手の中に納まり・・・。 「秀麗殿を待ち続けた主上には聞かせられない言葉だね。 しかも貴方は、結局絳攸を選んだ」 秀麗ははっと顔を上げた。 息が詰まる。 楸瑛が何を言いたいのか・・・・。 楸瑛は絳攸に視線を落とし溜息をついた。 (もう少し、休ませてあげたかったけどっ) ドカッという音が響く。 楸瑛は力の限り臥台を蹴飛ばした。 はずみで絳攸の身体もビクビクビクッと震え上がる。 身体を半起きにして絳攸は目を丸くしていた。 長い睫毛がパチパチパチパチする。 一体何事だ、と飛び起きた絳攸は楸瑛と秀麗を見比べた。 (まだ・・・秀麗は・・・) 絳攸は素直に感情を口にした。 「・・・・笑ってくれ、秀麗」 ぷちっと音が確かにした。 秀麗のこめかみに筋が立って。 パッチ――――――ン 派手な音が室に響いた。 |
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