双花菖蒲 塩気の強いおにぎりが二つ。 食べてもらえる当てのないおにぎりだった。 秀麗はそれを持って出仕する。 李侍郎の投獄から秀麗は目まぐるしい日々を送っていた。 日中は吏部尚書探索にガサゴソし、清雅の動向に目を配らせて、絳攸の拘束理由を洗いなおす。 勿論、絳攸の件以外の通常業務をこなしながら、だ。 気がつけば日はとっぷりと暮れている。 夕焼けを見て綺麗だと感じる前に、こんな時間なのかと慌てる日々は少し悲しい。 ・・・夕焼けを見る余裕があればの話だが。 茜色の昊も過ぎ去り星が瞬く頃、秀麗は絳攸のもとに行く。 日中。どんなに心配でも気持ちをぐっと押し込めて、あふれないようにフタをして、秀麗は“仕事”に集中する。 そうしなければ絳攸に会いに行く資格はないのだから。 秀麗はパタパタと一目散に牢に向かう。 こっそりおにぎりを抱えて。 食べてもらえる状態ではないと知っているけれど。 秀麗は御史の身分を示して牢に入った。 ふと気になって面会申請の記録を見る。 清雅が気にしていた理由はまだ分からないけれど・・・なんとなく見ておいた方がいいと思ったのだ。 (・・・楸瑛様がいらしてる) きちんと時間も管理されている台帳は、いまだ楸瑛が牢の中にいる事を示している。 絳攸がオカシクなってから楸瑛と主上は面会をかかした事がない。 秀麗は台帳を獄吏に返すと牢の階段を下りていった。 少し湿っぽい空気の中、カツンカツンと秀麗の沓音が響く。 それ以外の音がしなくて秀麗は何だかソワソワした。 あまりにも静か過ぎる。 楸瑛がきているはずなのに・・・・。 楸瑛も主上も面会に訪れては他愛のない事を語って帰っていく。毎日かかさず。 それなのに声すら聞こえてこない。 秀麗は階段を下りきって牢をうかがい見・・・固まった。 鈍器でガツンと殴られたような衝撃が目に飛び込んできた。 くあっと開きすぎた目が痛いとも感じなかった。 視界の中の楸瑛の背中が身じろぎして・・・秀麗ははっと我に返った。 慌てて階段の影に隠れる。 壁に背中をぴたりとくっつけて・・・・・バクバク激打する心臓が口から飛び出してしまいそうだ。 彼等・・・・いや、彼は何をしていた? 楸瑛は絳攸の上体を起こし抱えていた。 絳攸のあごにそっと添えられた楸瑛の指。そして唇は・・・・。 (・・・口付けてた・・・) 秀麗は目に焼きついてしまった場景に何も考える事が出来なくて・・・・ただ、その場にへたりこんだ。 コクリと絳攸の喉が鳴ったのを確かめて楸瑛はそっと絳攸を横たわらせる。 楸瑛は眉間に般若皺を寄せて後方の気配を探る。 (あ―・・・) 楸瑛のいる場所からでは階段の奥の人物は見えない。気配がある事が分かるだけだ。 だが、予想がついてしまった。 今の“現場”を見たとして、主上なら隠れる事はしないだろうし、獄吏なら逆に飛んでくるだろう。 何をしているのだ、と。 動揺して隠れてしまうという事は・・・。 楸瑛は階段の奥の気配が立ち去ったのを正確に捉えて苦笑した。 「どうする? 絳攸。 誤解されたようだよ」 そういえば、前にも誤解が誤解を呼び散々な目にあった事を楸瑛は思い出した。 あれは甘味屋での事だったか。 絳攸はピクリともしない。 馬鹿な事を言えば、目にも止まらぬ速さで飛んでくる書翰もなく。 悲しいのか寂しいのかつまらないのか。 ワイワイ楽しく過ごしたい訳でもないけれど。 楸瑛はひとつ息をついた。 絳攸は日に日にやつれていく。 意識を閉ざされてしまってからというもの、ろくに食事をしていないのだから当たり前といえば当たり前なのだが。 こけた頬。 生気のない青白い顔。 首筋にいたっては筋が浮き出てしまっている。 これでは意識が戻る前に身体が死んでしまう。 楸瑛は見かねて邵可に相談したものだった。 「食事をしなくても最低限身体機能を維持する何か。 例えば・・・薬湯のような物はありませんか? 出来るだけドロリよりサラリとした感じで」 と。 邵可は心得たように微笑を浮かべて数冊の書翰を貸してくれた。 そして。 楸瑛は手の中の小瓶を見て、絳攸を見る。 とりあえず絳攸は生きているようだった。 というのも・・・ 「すっごい味だよね、これ・・・」 一応、楸瑛は試飲してみたのだ。 すべて吐き出してしまったので試飲とよべるか怪しいけれど。 意識が遠くなるほど苦くて飲み込めなかった。 なんだか邵可が手ずから淹れてくれるお茶の味によく似ている気がするのだが・・・気のせいだろう。 (ま。私が飲むわけじゃないし、いいか) そう結論づけて楸瑛は絳攸に飲ませているのだ。 「実はね、この味に吃驚してついうっかり目を覚ますかなぁ・・・なんて思ったりもしたのだけれど。 甘かったねぇ」 しかも彼女の誤解つき。 「今度からは鼻から管を通して直接胃に薬湯を流し込んでみるかい? 痛いかもしれないけどさ」 誤解されるよりはいいよね。 本当にやろうとは思わない。実際のところ小瓶ひとつを牢に持ち込むのにも苦労しているのだ。 常なら差し入れはあまり厳しくはない。 だが絳攸の異常な状態を受けて面倒な確認が増えたのは事実だ。 楸瑛は浅く笑うと目頭を押さえた。熱い気がするのはきっと気のせいだ。 絳攸はやはり微動だにしない。 楸瑛はそもそも絳攸の反応に期待をしていない・・・はずだった。 リオウと一緒にいる時でさえ見た目の変化は何もない。 だけれど期待をしてしまう。 ふいに目を開けるのではないか。 油断した隙に枕を投げられるのではないか。 期待をして、反応がなくて。 ・・・・楸瑛は勝手に期待をした自分を嘲笑する。 その繰り返しが何日続いただろう。 楸瑛は臥台の傍に腰掛けて絳攸に話かける。 リオウがいないので楸瑛の声は届かないのだが、楸瑛は別段気にする素振りを見せなかった。 「ねぇ。絳攸。 君は私と長い付き合いになるなんて思っていたかい?」 それは絳攸に話すこともないと思っていた事。 「国試で机案は隣同士、及第した後も同じ役所でさ。 気がつけば迷子の君を連れ戻す役目になっていたよね。 ・・・・君は全面否定をするだろうけど。 私が文官を辞めた時、流石に君も思ったんじゃないかい? もう一緒に仕事はしないだろうなってさ。 そしたら、今度は仲良く主上の傍付だろう。 でもね。一緒に傍付の可能性を残したのは私の方なんだ」 文官から武官に転向した時、本当は藍州に帰るという選択肢もあった。 いつでも帰っておいで、と散々兄達の言葉があったのだから。 まぁ。玉華の事も一因ではあったのだけれど。 それでも完全に縁を切らなかったのは楸瑛の方なのだ。 「純粋に君という才がどこまで登れるか見てみたいと思っていた。 一番傍にいて、君の才を目の当たりにしてきたからよく知っている。 一日の半分を迷子に費やすような君が、人一倍仕事をこなして人の上を行くっていうのは、段取りがいいとか手際がいいとかいう問題じゃないんだよ」 仮にも国試を榜眼で及第した楸瑛が感じるのだ。 「その君が。 墨の香りもさせず筆を持つ手を・・・・こんなに細くさせて。 何をやっている? 絳攸」 楸瑛は左手をそっと腰に当てた。 常ならばそこに佩くのは花菖蒲の剣。 牢に入るために預けてしまっているけれど、まるで存在するかのように楸瑛は剣の柄を撫でた。 「花の片割れは主上の元へ帰ったよ」 主の力となるために。 絳攸の指の間に覗く玉。 文を力とし武を力とする。 当代の花に込められた意味。 握り締めているだけでは・・・駄目なのだ。 |
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