困った。
非常に困った。
絳攸は内心頭を抱える。
目の前には青い顔で固まってしまった秀麗。
息すらしていなさそうで、少し怖い。
いや、流石にそれはないか。
さて・・・・。
なんて声をかければいいのか。
絳攸は顔をしかめる。
こんなときばかりは腐れ縁のよく回る口が羨ましい。

(俺は、俺だしな)

溜息ひとつ。
絳攸は目頭を揉んだ。
窓の梁の奥。
昊の色から判断するなら、あと一刻ほどは寝れるだろうか。
「・・・奥があいたなら、使っていいか?」
それが絳攸の素直な本音。
楸瑛がいたら『もっと他にいう事があるんじゃないかい?』と絶対に失笑される事うけあいだ。
だがそんな事はどうでもよかった。
・・・・仕方ない。眠いんだ。
絳攸は心の中で言い訳をする。
実際中途半端に起こされてしまったのだ。
絳攸は、よいしょ、と立ち上がると顔をしかめた。
大腿がどしりと重い。
ふと、秀麗を見ると・・・・コクコクコクと頷いていた。
まるで壊れた人形のように首を振っている。

(さっきのがそんなに拙かったのか?
 家族思いの秀麗が“ばか”となじるのは珍しい・・・か)

絳攸は足元の毛布を拾った。
ちょっとおかしな方向に勘違いした事に気付かずに。
「・・・邵可様と喧嘩でもしたのか?」
渋々という口調で秀麗に問いかける。
「・・・え?」
秀麗は何とも困った表情をした。
父と絳攸を間違えた事にビックリしすぎた脳では反応が悪い。
・・・えぇっと?
何故そっち?

(間違えて抱きついたのは・・・何も思ってらっしゃらない?)

それはそれでちょっと悲しい。
何も返せないでいると、
「・・・ばかって聞こえてしまったからな。
 その、聞くつもりはなかったんだが」
言い訳じみているな、と絳攸はぼやいた。
「そ。
 それは・・」
「悪かった」
秀麗が言いあぐねている隙に絳攸はあまり使わない言葉を言った。
「なんで絳攸様が謝るんですか?」
秀麗は大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「なんで、と言われても」
「父様と間違えて不快な思いをさせたのは私です。
 だから謝らなければいけないのは私なのに。
 ・・・・その、ちょっとっていうか、だいぶびっくりしてしまって・・・なんというか」
秀麗の強い瞳がしゅんと項垂れる。
「そんな・・・顔をするからだ」
「・・・え?」
「そんな、シマッタ・ドウシヨウなんて顔をするから言ったんだ」
「ですから、それはっ」
「俺が謝りたかった。
 文句をいうな」
そうなのだ。
不可抗力同然に巻き込まれてしまったが、絳攸が謝りたかった事に違いはなかった。
秀麗は“強い”女人だ。
絳攸はそう思う。
隙がない、とも言えるかもしれない。
諦める事も折れる事も知ってはいるが、それを良しとしない心。
努力を怠らず上を見上げる勇気。
白と黒の間を揺れる曖昧な灰色の部分を見据える力。
清清しいまでにしなやかに“強い”彼女の“弱い姿”は秀麗の特別な人だけ知っていればいいものだろう。
そんな親娘の絆を不可抗力であっても立ち入ってしまったのだ。
謝る事は絳攸のケジメでもあった。
「・・・ちがいます」
ぽつりと秀麗は言った。
そうではない、と。
その肩は小さく震えていた。
―――ああ。まさか、こんなところで。
「私が・・・。
 私が強いんじゃないです。
 現に、父様にだって寝込みを盗むようにしなくちゃ甘える事だって出来ないんですから」
「秀麗」
秀麗はくっと上を見る。
眦はうっすら光っていた。
絳攸の視線を絡めとって、とん、と拳で絳攸の胸を叩く。
「貴方が!
 貴方が強い人が好きだから」
私は強くなりたかった。
「・・・・」
「貴方に認められるように」
「・・・秀麗」
「ごめんなさい。
 こういうの・・・絳攸様はお嫌いですよね」
分かっている。
だから隠してきたのに。
こんな・・・ところで暴露する事になろうとは。
絳攸にぶつけた拳の震えが止まらない。

絳攸は眉間に皺を寄せた。
「・・・・・」
―――やられた・・・
瞬時にそう思った。
取り返しのつかない一歩を踏み込まれてしまった。
この最悪の状況に絳攸は頭を抱えたくなる。

(・・・俺は何のために・・・)

絳攸は表情を消した。
触れれば切れてしまいそうな殺伐とした表情は官吏の誰もが知っているものだった。
秀麗、と絳攸は硬い声で呼んだ。
彼女と自分自身を傷つける覚悟に腹を据える。
「ああ。
 確かに嫌いだな。
 涙のひとつも見せて縋るようなことを喚く女は」
それは絳攸の“本当”。
たった一人の例外を除いた本音。
言う必要もないけれど。
「ごめ・・・申し訳、ありませ・・ん。
 ・・・・分かって・・ます」
秀麗はあえいだ。
冷たく光る刀身で胸を刺されたようだった。
瞳いっぱいの涙が揺らめく。
何故涙は秀麗のいう事を聞いてくれないのだろう。
涙なんか流したくないのに。
流してしまったら、更に絳攸に嫌われる事は分かっているのに。
瞬きしたら、零れてしまう。
それでも。
秀麗は拳に力をいれると、もう一度絳攸の胸を叩く。
「けれどっ!
 強くなりたいって。
 認めてもらいたいって。
 そうなるよう努力するのは、私の勝手ですから。
 ほっておいて下さい」
想い続ける事は自由だと。
秀麗は言った。
そこにいたのは乞い縋る女の姿ではなく・・・・。
「・・・お前は本当に・・・」
階の上を見上げる瞳。
秀麗は何時だって、この目で絳攸を見上げる。
絳攸の一番好きな、強い強い眼差し。

(・・・理不尽だ・・・)

思わず抱きしめてしまいたい衝動。
絳攸は腹の底にぐっと力をいれて堪えた。
今まで。
今まで耐えてきたのだ。
―――秀麗は俺の傍にいていい女人ではない・・
そう思うからこそ、身を縛るほどに焦がれるほどに“秀麗”を戒めてきたというのに。
庭院の桜と李木の下で泣く秀麗に手布を渡した夜。
イチョウの葉が舞い散る中『貴方の好きな料理を』と腕まくりされた金色の秋。
冬の寒さの中、肩を寄せ合って火鉢にあたり雪の話を聞いて欲しいとねだった冬。
秀麗と出会い一緒に過ごした時間は決して長くはない。
でも、思い出は苦しいくらいに鮮明で。
苦しくさせている“想い”の名を・・・・絳攸は決して認めなかった。
それなのに、こんなところで。

(手遅れ・・・か)

―――あの一歩がなければ、決壊を生むことはなかった。
そう思うと秀麗が少し恨めしい。

「・・・絳攸様を、お慕いしています。
 私の女の部分は切って頂いて結構なので・・・。
 弟子としての紅秀麗は嫌いにならないで下さい」
しょんぼり肩を落として秀麗は言う。
絳攸は微苦笑した。
するしかなかった。
今まで絳攸が“思い込んでいた”逃げ道を逆に秀麗に使われる日がこようとは。
さあ、どうする?
逃げ場はもはやない。
「降参だ」
そう一言。
だって唯一の例外が目の前にいるのだ。
「絳攸様?」
「嫌いでは、ない」
「・・・え?」
「嫌いではない、と言った。
 弟子としても。
 官吏としても。
 それに・・・お前の女人の部分も。
 秀麗になら涙で迫られても嫌いには、なれないだろうな」
「でも、さっきは・・・」
「お前だけが例外だ」
絳攸は不本意だと言わんばかりの顔をしていた。
まったく何を話しているのか、と。
「俺は・・・きっと。
 甘やかす事は出来ないが、秀麗になら甘えて欲しいと・・・思う」
それは秀麗が思う以上の末期症状。
「・・・っ」
秀麗の頬が弾かれたように薄桃に染まる。
絳攸の心が軋んだ。
あぁ、痛いな。
「だが。
 俺では秀麗を幸せにできない」
「・・・・・・・・なん・・・」
「秀麗は・・・弟子のままでいて欲しい」
我侭だと知っている。
そんな関係を望むのは。
でも。
秀麗に一線を踏み込まれたときに、絳攸が腹に決めた着地点は此処だった。
閉じ込めていた想いと、環境。
相反する方向性を持っていたから堅固な要塞を築いていたというのに。
ぶち壊すのは、甲斐性のない一言。
絳攸は秀麗の拳を引き離した。
拳から・・・絳攸の心鼓が伝わらないように。
痛みが伝わらないように。
そして、じわりと広がる安堵が伝わらないように。
絳攸は一度目を閉じた。
身体の奥が・・・静かだった。
想いを口にしてしまったら・・・認めてしまったら、もっと心が痛いと思っていたのに・・・あまりにも衝撃が少なくて意外だった。
それは決して楽になったわけではないけれど。
絳攸はぴくりともしない秀麗を見つめる。
普通の女人と比べても格段に小さい肩が寒そうで。
絳攸は毛布があったのを思い出すと肩にかけてやった。
その時。
強い光が窓から差し込んだ。



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